石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


市立横須賀病院  @  『近世復興式の建築』
原文

明治三十年(一八九七)以後、横須賀町の戸数も人口も増えたが、衛生面は十分ではなかった。飲料水不足のため井戸水を使うので、赤痢や腸チフスなどの伝染病が流行した。 三十九年に町はずれの坂本の山林を切り開き、町立横須賀病院を建築したが、翌年の市制施行により、名称は市立横須賀病院と改めた。 一方、大正十三年(一九二四)五月に、県臨時救療院が旧海軍病院敷地のー角に開院した。今の深田台の市文化会館の前あたりだ。十月に救療院が市へ移管されると、市立横須賀病院となったため、坂本のほうは市立横須賀博愛病院と改め、さらに、昭和十年二月には市立坂本病院となった。 新しい市立横須賀病院は救療院よりも奥、今の市文化会館の位置に建てた。工事は昭和四年七月に始まりニ年後に完成。建築様式は、「ライト式を加味した近世復興式」と呼ばれ、昭和初期としては極めてモダンな造りだった。 建築費は三十七万七千五百円。敷地は二千六百九十坪(八千七百八十平方b)で建坪は千百十一坪(三千六百七十平方b)。本館をはじめ東病舎、西病舎、看護婦寄宿舎がニ階建てで、全体の三割。そのほか消毒室、日光浴室、手術室、細菌研究室、理学的治療室、X(エクス)光線深部治療室、図書標本室、薬局、霊拝室、動物舎、産室、患者浴室、氷庫など完備され、病室は七十室も。 診療科目は内科、外科、眼科、産婦人科、耳鼻科、小児科で発足。小児科といえば、担当医師として京都大学の研究室から招かれたのが、洲崎敬三さん。 「いやあ横須賀へ行けと教授の命令でした」と語る洲崎さんは、安浦町一丁目に住まわれ、市中央保健所の運営協議会委員長だった。お話をうかがった。
原本記載写真
横須賀市深田台に関東大震災後できた県臨時救療院が、大正1 3年(1924)1 0月に市へ移管、市立横須費病院となった。写真は、今の市文化会館の所に新築された病院(昭和6年)。「ライト式を加味した近世復興式」のモダンな造り方だった

市立横須賀病院 A 『屋根や壁を黒塗り』
原文

洲崎敬三さん 病院育ての親。富山県出身、明治三十二年生まれ。長く院長を務められ、市中央保健所の運営協議会委員長だった。お話をうかがった。 「昭和四年十二月に京大教授から『横須へ行け』といわれ、初めてこちらへ来また。病院はひどいバラックでした。『立派なのができるからな』と言い含められてね。院長は中島という海軍軍医少将でした。翌五年一月に学位論文が通り当時、市では私だけ。重宝がられて住みついたわけです。昭和三十九年に退職しましたが・・・。 戦時中は、病院裏に防空壕(ごう)を掘り、ベッドを百五十ほど備えました。警報が出るたびに入院患者を避難、大変でした。建物を守るため、屋根や壁を黒く塗りつぶすことになっていたが、なか なか手をつけませんでした。やがて戦争が激化、このままではまずいだろう、と塗り始めたのがニ十年八月十四日。翌日が終戦、梅津市長さんに相談したら『どうなるかわからんから全体を塗っておけ』・・・。 戦後ですか。米海軍病院から不意に視察に来たり、『設備や看護はアメリカ式にやれ』と指示がありました。あの当時じゃ、むちゃな話でした。単独では立場が弱いので市内の国立、衣笠、聖ヨゼフ、共済会らの病院がー丸となって横須賀病院会を結成、けっこう抵抗しましたよ。 昭和三十八年三月十七日の病院火災は、漏電が原因でしたね。犠牲者が出なかったのが不幸中の幸いでした。未熟児を両わきに抱えて避難するなど、職員はよく働いてくれました。その中には、今なお中央保健所で頑張っている人もおります。実は、当時の職員が毎年三月十七日に集まるのです。一昨年はニ十周年で、全国から六十人が集まり旧交を温めました。得がたい人間関係ですね」 お話は病院の移り変わりすら戦前、戦後の横須賀のエピソードに及ぶ。その道一筋の測り知れぬ深さをかいま見た。
原本記載写真
70の病室をはじめ手術室、X光線深部治療室、理学的治療室など、設備は当時としては整っていた。この病院は昭和38年3月17日に全焼したが、幸いなことに犠牲者は出なかった。写真は、手術室、治療室などの設備

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