長沢、野比、津久井の三村が明治二十二年(一八八九)の市町村制実施で合併して北下浦村となった。
村の海辺は『三浦郡誌』(大正七年刊)によると「一帯に平滑なる砂丘にして北に千駄崎あり久里浜村に界し、南東遥かに南下浦村雨崎に至る。この間いわゆる下浦の平沙をなす」とある。
明治末からこの浜で生き抜く館(たて)浜吉さんにお話をうかがった。明治三十二年生まれでハ十四歳。市内長沢にお住まい。
「下浦の浜で子供の時から煮干やしらすを作っていました。巾着(きんちゃく)網を積んで沖へ。昔はシコやイワシが舟に三、四はいも獲れました。浜で煮干に。ごく昔は三尺(九十a)のかまで煮て、かごですくったが、改良後は、箱にすを作って十枚重ねてかまへ。
油ののっているシコはー週間は干した。
関西からも注文があり、中には浜で値を決めて買取る人も。
農閑期には落ちダコを獲るんです。寒くなると東京湾内から下浦沖へ来るタコです。今じや、浜はごらんの通りで変わりましたな。話がそれてもいいかね。私は大正八年に甲府の歩兵連隊へ入営した。おやじが送ってくれたが、横須賀駅までは歩きでした。道順は、野比大作から粟田道(あだみち)へ。粟田の山は男でも昼間は怖かった。着物、はかま、げた、ふろしき包みの姿でした。法塔、佐野、豊の坪、汐入を通りましたが、この道順で毎日、下町の海軍工廠(しょう)へ通った人が
近所にいました。楽しみは正月でしたね。白米が食べられた。ふだんは麦めし、おかずは砂糖みそ。ご存知ですか、みそに砂糖を混ぜたものです。魚は売り物、口にはできなかった。うっちゃる(捨てる)のがあると食べられた程度・・・。
それに相撲が盛んで、丸屋旅館の下に土俵があった。三浦相撲の本場、下宮田へ出場したもんです」
語り終えた館さんの視線は、窓外の沖の空へ。軽やかな白雲が浮ぶ。下浦の春は海からやって来る。
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