石井 昭 著 『ふるさと横須賀』
県立横須賀中学校 @ 『一高の寮歌を謳歌』 |
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開校から昭和三年までのニ十年間、校内に寄宿舎があった。つねに全校生徒の約一割六、七十人が寝起きをともにした。そのひとり、旧制十四期の近藤石蔵さんに、お話をうかがった。明治四十一年生まれ、大滝町二丁目にお住まいである。 「私は大正十年に入学し十五年の卒業です。五年生のー学期まで寄宿舎にいました。当時の吉田校長は、大変なスパルタ教育でしたね。夜間外出はいかん、自転車は禁止。通学は制服だが帰宅後の外出は和服、それも着流しはダメ、袴(はかま)着用のことといった調子でした」。 「寄宿舎は、通学が無理な迫浜方面や長井、三崎方面の生徒のための施設。しかし、海軍士官の子弟は父親の転勤後、世話になっておりました。 えっ!私ですか。大滝町のこの辺は、待合いや芸者屋が多く、赤線まではいかぬ青線区域と見なされていたのでしょう。そういう区域の者は、必ず寄宿舎に入るべしという訳。父親は私の願書をニつ、入学願と入舎願を出しました」。 「寄宿舎生活は、営内居住といったものです。私どもは舎生、通学生は本校生と呼ばれました。旧制高校にならって『ああ玉杯に花うけて』などー高、三高、北大の寮歌を謳歌(おうか)。でも、数え年十四歳から十九歳でしょ。もっと伸び伸びさせたほうがいいと今、思いますが・・・。 三食付きで月十五円、親にとっては大変な負担だったようです。主食は毎食、米二合、ひとりずつのおはちでした。副食は、魚か野菜の煮ものー品だけ。 起床は六時三十分でしたね。七時の朝食、点検のあと学校へ。昼食は舎生だけ 寄宿舎へ戻って済ませました。夕食後は九時まで自習時間で、十時に消灯、就寝という毎日でした」 食い盛り、伸び盛りだった思い出だけに、話題は広がるー方。近藤さんは熱っぽく語られる。 |
寄宿舎生活は、いわば軍隊の営内居住と同じだったという。三度の食事から間食、入浴、自習、就寝時間まで厳しく定められていた。写真は、寄宿舎。ここでー高、三高、北大などの寮歌を謳歌(おうか) した。数え年14歳から19歳だった。 |
県立横須賀中学校 A 『間食は週番の好み』 |
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旧制十四期の近藤石蔵さんのお話は、続く。 「寄宿舎は部屋が七つ。それぞれ十人近く入っていました。五号室までは三年生以上の混み。六号室はニ年生、七号室はー年生だけでした。室長は皆、五年生。特に六、七号室の室長は、模範生が務めました。 週番は室長が交代であたり、週二回の間食は週番が『あすの間食は焼芋なり』と回覧。間食はー回五銭、種類は焼芋、あんまき、うどんぐらいです。週番の好みで決まりました。「あいつが週番じゃ焼芋だぞッ」てな調子で、その週番を”芋番”と呼びました。 夜九時の点検後、そっと佐野の入舟そば屋へ出前を頼みに行くのです。使い走りは三年生。ひとりでニ、三杯も頼むので、ひと部屋でニ十杯も。私ら三年生の時、注文に行くでしょ、入舟の店でー杯食べてくる。これは使い走りの役得。 そばは、においがするので、一番はじの賄(まかな)いの隣で食べるのです。出前がくると、賄いも心得ていて「来ましたよ」と声を落として・・・。そのうちエスカレートして「牛鍋くうべえ」。舎監室からー番遠い部屋で、化学室のアルコールランブを拝借して、夜十時ごろに煮るのです。鉛筆を削り、いぶらせて匂いを消しました。 さっきのそばですが、天ぷらそばは天ぷらニつでニ十銭、天南ばんは天ぷら一つとネギで十五銭、かけそばは七銭でした。そこで天南ばんとかけそばを取る。あわせてニ十二銭だ。二杯で、天ぷらそばー杯と、ほぼ同じ値段でしょ。 食べ方は、天南ばんを先に。ただし、天ぷらとおつゆは残して、そこへ、かけそばのそばだけ入れる。 話は変わりますが、私は野球部の四代目キャプテンでしたが、野球部のことは二代目の山岡さんにうかがって下さい」。近藤さんは「私を含め一族のうち一二人が横中、横高の出」とおっしゃる。戦後早々のPTA会長も務め、母校への情熱は人一倍と、お見受けした。 |
寄宿舎は部屋が7つ。 5号室までは3年生以上、6号室は2年生、7号室は1 年生だけ。外出は放課後から夕食までの時間、隔週の土・日曜には自宅に限り外泊が許された。=イラストは、横須賀市津久井973、宮川敏助さん提供 |
県立横須賀中学校 B 『待望の野球部誕生』 |
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創立以来、野球は禁止。野球は、ぐれん隊のすることで、キャッチボールが見つかると停学になったった、という。それが大正一二年(一九二三)に解禁となり、逆に奨励され始めたのは、二代校長に河辺良平が就任してから。当時の新聞「軍港よろづ新報」(大正十二年三月十八日付)には「本市に初めて学生チーム現はれたり」の見出しで次の様な記事が載っている。 「わが横須賀には未だ学校チームと言うものがなかった。実業チームは沢山あるけれど・・・。これは真にわが横須賀市にとっては遺憾な事であった。この野球大流行の際に。 が果然、創立以来十五年間、唯沈黙を守り飛ばず鳴かずの状態であった横須賀中学校は河辺良平校長を戴いてより、忽(たちま)ち旧態を改め野球部を設ける事になった。これによってわが市にも活発なる中学校チーム、打撃の振ふ学生チーム、守備堅実なる少年チームは此處(ここ)に産(う)ぶ声を上げる事になった…」 当時、四年生であった山岡嘉次さんは、大正八年入学の旧制十二期。柔道をはじめ剣道、テニスなど万能選手だったが、野球部創設に加わった。横浜市金沢区にお住まいで、現在は学校法人緑ケ丘学院・緑ケ丘高等学校長を務める。お話をうかがった。 「河辺校長は慶応大学の大投手、小野三千麿(みちまろ)の育ての親。教頭の大野先生は早稲田の出身、大の野球好きでした。待望の野球部ができました。今の校舎の所が、グラウンドでした。グローブやバットは自弁です。正門から校舎への砂利道が、ショートを守った私の位置。東京商船学校との試合中に、ボールがイレギュラーして顔面に。気絶してしまい前歯を折りました。大正の未ころは、軍需景気で、海軍工廠(しょう)の各工場とも野球が盛ん、また、市内にも合わせて七十の硬球チームがありましたが、学生チームは、私ら横中だけでした」 |
創立以来、禁止されていた野球が解禁された。「軍港よろず新聞」(大正l2年3 月18日)に「本市に初めて学生チーム 現はれた」とある。写真は、野球部卒業生(大正13年3 月)。前列右端が若き日の山岡さん。中折れ帽子が河辺校長 |
県立横須賀中学校 C 『自宅に生徒の表札』 |
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野球部二代目のキャプテン、山岡嘉次さんは卒業後、鶴久保小学校の代用教員を二年務めた。その間、少年野球を指導、明治神宮の全国大会へ出場した。以後、国学院大学に進み野球部で活躍。卒業の時、明治大学の岡田源三郎監督に「中京商業の野球部を見てやれ」と勧められ、昭和四年に中京商業へ。「いい生徒に恵まれ、昭和六年から甲子園で三連覇(ぱ)したのは、無駄のないプレーに徹した結果です」と語られる。 山岡さんは今、日本高校野球連盟の理事を務める。母校、今の県立横須賀高校十二代目の校長を勇退されたのは、昭和四十三年だった。 やはり、母校の教壇に立つた人に宮川敏助さんがおられる。明治四十三年生まれで旧制十六期。大正十二年に入学し昭和三年の卒業。戦後二十六年間、母校の芸術科を受け持つた。京急津久井浜駅近くにお住まい。 「私の家は下町で神崎屋という、かまぼこ屋でした。近藤さん同様に寄宿舎入りだった。当時は、済美録という小冊子に教育勅語、生徒心得、成績などが記載されていました。 規則は厳しく、家の近くのふろ屋へ行くのにも袴(はかま)を着用、忘れ物をしたら自宅が三崎でも取りに行く、という具合でした。往復とも歩き、学校に戻ったら放課後、という始末でした。それに、生徒の家では表札を掲げるのです。『県立横須賀中学校生徒 宮川敏助』という表札です。横中生徒のプライドを持て、という狙いだったのでしょう。 横中の運動会には、海軍の軍楽隊が来て演奏、勇壮でした。また、横中が主催して市内小学校連合運動会を開きました。今でいえば、陸上競技記録会でしょうか。 私が生徒の時、教師の時を問わず、横中は少しのことでも、キチッと対応をしました。それでいて生徒同士は「あいつが・・」とはいわない。お互いにプライドを尊重していました。今でも、この伝統は生きているでしょう」 「今でも伝統は生きている」。これが在学、在職合わせて”横中三十年”を振り返る、宮川さんの結びの言葉である。 |
昭和3年5 月、17期生の修学旅行。関西への往路は三重県・鳥羽まで戦艦「長門」に乗った。軍艦での修学旅行は、全国でも珍しいことで、当時の生徒は大喜びだったという。写真は、「長門」 の誇る巨砲の前で記念撮影 |
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