石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


県立第四中学校  『人間愛秘めた教育』
原文

神奈川県に初めて男子の中学校が設立されたのは、明治三十年(一八九七)のこと。校名は、県立中学校である。のちの第一中学校、今の希望ケ丘高校だ。次いで、三十四年に小田原に第二中(今の小田原高校)、翌年、厚木に第三中(今の厚木高校)が設立された。 その後、四十年八月に、今の県立横須賀高校の所に第四中が決まった。三浦半島の男子中学では、逗子開成中に続く二番目、公立では初めて。開校にこぎつけるまでの陰の力は、大変なものだったそうだ。 長州(山口県)出身の県知事周布公平は、初代の校長に、幕末の志士吉田松陰の甥(おい)にあたる吉田庫三(くらぞう)を招き、建学の礎を託した。 吉田は、陽明学を学び儒教思想に徹した人。「創立七十周年記念誌」(昭和五十三年刊)によると「学校経営の方針は峻厳(しゅんげん)を極め『修身斉家治国平天下』、『知行合一 』、『報本反始』を教育理念とし国家有為の人材養成を目標とした。 すなわち、学校生活においては妥協を許さず、深奥には人間愛を秘めていたが、果断なる教育を行なった」とある。 吉田は、また明治の武人、乃木希典(まれすけ)の縁故者でもあった。明治の末、乃木は、しばしば佐野の吉田家を訪れた。漢学の大家である吉田に、漢詩の添削を請うのと、吉田の母堂に会うためだったと、いわれる。 乃木が、横須賀駅に降りると、不入斗(いりやまず)の連隊から乗馬が出迎え、駅から佐野までの馬上の乃木を見た、という話を聞いたお年寄りがおられる。 大正十一年(一九二二)六月、吉田は現職のまま逝去。墓は、山口県萩市の松陰の墓と並ぶ。県立第四中は、大正二年に県立横須賀中学校、略して横中となり、戦後の六・三制発足で、今の県立横須賀高校と改称された。
原本記載写真
明治40年、今の県立横須賀高校の所に第四中学校が設立された。三浦半島の男子中学校では、逗子開成中に次いで 2番目。その後、大正2年には県立横須賀中学校と改称された。写真は、近代的な校舎前で開校記念式(明治41年6 月20日)

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