石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


逗子開成中学校 @  『12人の生命を奪う』
原文

「教育ハ老幼ノ等シク欠ク可(べ)カラザルモノナレドモ、ソノ最モ人二重ンズベキハ中学ノ時期ナルベシ。ソノ故(ユエ)如何トナレバ中学ノ時期ハマサニ人ノ一生ノ中、最モ外誘二カカリ易キ時ニシテ、シカモ亦(マタ)最モ能力ノ発達スル時ナレバナリ…」 「相模逗子ノ地ハ、外誘多キ都市卜相距(ヘダタ)リ交通シカモ不便ナラズ。自然モ、ソノ秀ヲココニ鐘(アツ)メタルモノノ如シ。学校ノ位置トシテソノ益ノ誠二少ナカラザルベキヲ信ズ…」  これは「明治三十六年第二開成中学校創設趣旨」のー部である。 第二開成中学校は、東京開成中学校の分校。明治三十六年(ー九〇三)四月に設立された。逗子開成高校の前身だ。私立男子校では、県下で最も古い。 仮校舎は、三浦郡田越村大字(あざ)池子の東昌寺本堂。設立者のひとり、田辺新之介は当時、東京開成中第五代校長で四十一歳。 田辺は、文久二年(一八六二)に唐津藩主小笠原候の江戸藩邸に生まれ、大学予備門で学んだ漢学者。明治十五年(一八八二)に東京開成中に勤め、のちに校長。逗子開成中設立の翌三十七年十月に鎌倉女学校(今の鎌倉女学院)も設立、両校の校長を兼ねていた。昭和十九年二月に逝去。 話を戻そう。設立後すぐ校舎は、現在地の逗子市新宿に移転。六年後の明治四十二年七月に、本校から独立して、校名は私立開成中学校となつた。翌四十三年一月二十三日に、小学生ひとりを含む十二人によるボート遭難事故は当時、類を見ない悲惨な出来事だった。 その全容は、「開成七〇年のあゆみ」をはじめ「わが母校わが友」(毎日新聞社横浜支局編)、宮内寒彌著「七里ケ浜」、逗子開成学園校友会「校友会誌」復刊第一号(昭和五十三年刊)、逗子開成中学校修養会「本校創立三〇周年記念誌」などに、詳しくのべられている。
原本記載写真
明治36年(1903)に東京開成中学校の分校、第二開成中学校が開校。私立の男子中学としては県下では、最古の歴史を誇る。写真は、第 1 回卒業生の皆さん(明治40年3月)。以来、世に送り出した卒業生は 2万数千人

逗予開成中学校 A  『七里ガ浜の哀歌』
原文

「七里ガ浜の哀歌」
一、真白き富士の嶺
緑の江の島
仰ぎ見る眼も今は涙
 帰らぬ 十二の
雄々しきみたまに
捧げ奉らん 胸と心
ニ、ボートは沈みぬ
千尋(ちひろ)の海原
風も波も小ささ胸に
力も尽きはて
呼ぶ名は父、母
恨は深し 七里ガ浜
三、み雪はむせぴぬ
風さえさわぎて
月も星も影をひそめ
みたまよ いづこに
迷いておはすか
帰れ早く 母の胸に
(以下略)
これはボート遭難生徒の追悼大法会(ほうえ)で、鎌倉女学校の生徒六十人が歌った「七里ガ浜の哀歌」である。この時、会葬者は約千人、場外の人も合わせれぱ五千人。参列した人々の心を打っ た、という。 鎌倉女学校は、田辺新之助が逗子開成中設立の翌年、明治三十七年(一九〇四)に設立、両校の校長を務めていた関係で教員にも兼任が多かった。 「七里ガ浜の哀歌」は、一般的には「真白き富士の嶺」で知られる。作詞は、鎌倉女学校教師の三角錫子(みすみすずこ)、本名は寿々(すず)。 鎌倉女学校の記念誌「鎌倉そして鎌女」(昭和五十六年刊)によると、三角は明治二十五年(一八九二)に女子高等師範学校を卒業し、北海道で教壇に立ったが過労のため病気となり、逗子へ転地療養に来た。三角は大正五年(一九一六)に東京渋谷の常盤(ときわ)松に、常盤松女学校を設立した。 トキワ松学園の前身である。   逗子開成中の卒業生は各地区で「開成会」を結成。市内長浦町五丁目にお住まいの美才治義雄さん、横須賀開成会の会長。「会員は五百四十人、市内の在住在勤者の集まりです。各地区の開成会とともに、連合体としての校友会を支えています」とおっしゃる。
原本記載写真
明治43年(1910) 1 月23日、七里ガ浜沖でボートが沈み、12人の生徒らが遭難した。そのうちの徳田兄弟の遺体は、兄が弟を抱いた涙を誘う姿で発見されたという。写真は、鎌倉・稲村ガ崎に建てられている徳田兄弟の像

逗子開成中学校 B  『校長に海軍少将』
原文

「私学ならではの校風がありました。五年間、鍛えられたものが生涯の支えに…」と語るのは、旧制十五期の菅沼謙一さん。明治三十七年生まれで、大正五年に入学、十年に卒業された。大津町三丁目にお住まいである。
「通学はまず横須賀駅まで徒歩。三崎方面の友人は自転車隊と呼び、駅まで自転車で来ました。当時の横須賀線は汽車で、私ら汽車通と呼ばれてました。楽しみは、車内で見かける鎌女(鎌倉女学院)の女学生でした。姉妹校のためか、横須賀高女よりも親密感がありました。でも、実が結ばれた話は聞きませんが」。
「白いズックのかばんを、生意気にも片方の肩に下げての通学。制服は小倉からサージになりました。割合ぜいたくでした。県立横須賀中学は、小倉服のままなので『ダンベエ』と冷やかしたものです。規則は厳しく、停学や退学は入り口の大黒板に掲示されましてね」。 「三年生の時でした。岡田三善校長が『最後のご奉公である』といって就任。横須賀海兵団長で、海軍少将でした。精神教育に徹し、柔道や剣道を奨励されました。柔道では三船久蔵名人の指導で、全国制覇を何回も。また、あとの話ですが、海軍軍楽隊のお古の楽器で誕生した吹奏楽部も、全国的に名を挙げました」。
「私どもが自慢できるのは、立派な先生が多かったことです。教師は、その本分に徹していました。名物先生が、いたなあ。一高教授の宇高先生は逗子で療養中、講師になられ、そのまま教壇に立ち続けました。超一流の英語の教師でした。学校には充実した教師が必要、これが私の自論です」。
原本記載写真
「立派な先生がおりました」「私学ならではの校風、鍛えられたものが生涯の支えに」と語る、卒業生が多い。写真は、逗子開成中学校の校友会の「修養会誌」。長い歴史と輝かしい”開成魂”が、詳しく記載されている

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参考文献・資料/リンク
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