石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


長官官舎  『簡素で機能的造り』
原文

海軍工廠(しょう)構内の横須賀鎮守府司会長官の官舎は、明治四十三年(一九一〇)に、造船台の拡張のため取り去られた。新官舎は、東京湾を見下ろす、今の田戸台に建てられた。設計は、海軍施設部長の桜井幸太郎が受持った。桜井は、二十三年にロンドン大学建築学科を卒業した。工事は四十五年に始まり、大正二年(一九一三)に完成。 当時の司令長官は、海軍中将男爵(しゃく)の爪生外吉(うりうそときち)。爪生は、明治十四年(一八八一)にアメリカのアナボリス海軍兵学校を卒業。有能にして人格高潔な提督とみなされ、また キリスト教を信奉した、という。一方、その夫人は明治四年、日本政府初の渡米女子留学生のー人。 長官官舎は、爪生夫妻と桜井の三人の博識と創造力による合作でもあった。和室の典型的な簡素さと機能的な造り、当時の保守的なアメリカやイギリス風の装飾をかたどった食堂や、居間の古風な仕組みなどが当時、話題となった。関東大震災でもビクともしなかった、といわれる。 爪生は新官舎完成の前年に転出。官舎初のあるじは次の長官、東伏見宮。以来、昭和二十年八月の終戦までの三十二年間に、三十一人の歴代長官が使った。その中には、三度も海軍大臣を務めた 財部彪(たからべたけし)、ワシントン軍縮会議の立役者のひとり加藤寛治(ひろはる)、のちの首相の岡田啓介、太平洋戦争開戦時の駐米大使、野村吉三郎、軍令部総長の永野修身(おさみ)、海軍大臣の米内(よない)光政や島田繁太郎、連合艦隊司令長官の古賀峰一や豊田副武(そえむ)らが。最後のあるじは、終戦直前に着任した戸塚道太郎。 戦後、初の入居は米海軍基地司令官デッカー大佐で以後、極東海軍、さらに名称が変わって在日米海軍の歴代司令官が使った。今は、海上自衛隊横須賀地方総監部が管理している。
原本記載写真
東京湾を見下ろす閑静な横須賀市田戸台に、大正2年(1913)横須賀鎮守府司令長官の官舎が完成。終戦までの32年間に31人の歴代長官が愛用した。その中には近代史に名を残した人も。写真は、変わらぬたたずまいの長官官舎

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