石井 昭 著 『ふるさと横須賀』
芥川龍之介 @ 『海軍の英語教官に』 |
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大正五年(一九一六)一二月に、海軍機関学校の英語の教官となつた芥川龍之介は六年九月、鎌倉の下宿から市内汐入町五百八十番地、尾鷲梅吉さん宅に下宿した。翌年二月に塚本文子と結婚、三月 に鎌倉の大町辻に移るまでの、わずか六カ月だったが…。 海軍に勤める前、芥川は、友人あての手紙に「原稿料一枚につき六拾銭では貧困の極に達している」と書いている。この原稿料は小説「芋粥(いもがゆ)」への報酬らしい。したがって経済的に独立したいし、人生経験も得たいところから、機関学校へ就職したようだ。そのころの芥川は、小説「鼻」を発表した直後で、夏目漱石から「ああいふものを是(これ)から二、三十並べて御覧なさい。文壇で、類のない作家になれます」と、ほめられている。 在住の六カ月間は、のちの「保吉(やすきち)もの」という一連の作品や「或(ある)阿呆(あほう)のー生」にも描かれている。下宿先は、今の汐入町三丁目一番地にあたる。長源寺坂下のダイヤチェーン汐入ストアー前あたり。向かいの矢島鍼灸(しんきゅう)マッサージ治療院の矢島与七さんにうかがった。 「尾鷲さんのお宅は、今のストアーの前から中邑(むら)建具店隣までの広さで、池や石橋があり立派なお宅でした。門には、横須賀共済会と横廠(しょう)交友会の看板があり、人の出入りは多いようでした。戦時中の建物疎開や、戦後の道路拡張で、家並みはー変してしまいましたね」。 芥川を下宿させた尾鷲梅吉は、静岡県田方郡の出身で明治十二年、十八歳で横須賀へ来た。苦労の末、二十一年に石炭販売業を開業。「三浦繁昌記」(明治四十一年刊)には「業務繁栄、汐入町に魏然(ぎぜん)たる家を構へて、御用商人中の巨頭と目されおれり」とある。 |
横須賀市内には戦時中の建物疎開で、道路が拡張された所が多い。汐入町3丁目、長源寺坂もその一例。写真は、芥川龍之介の下宿先、尾鷲梅吉さん宅があった辺り。ダイヤチェーン汐入ストア一前にあたる。町並みはー変してしまった |
芥川龍之介 A 『工廠・虹・「保吉」…』 |
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芥川龍之介が、市内汐入町の尾鷲梅吉宅に下宿していたころ、若松町にー時、岩淵百合子が住んでいた。岩淵は、平塚雷鳥らと青踏社を結成、女性解放運動の口火を切ったひとりだ。 時たま与謝野(よさの)晶子、北原白秋、久米(くめ)正雄らと、文学論で夜を明かしたそうな。 ここで芥川の作品を。「横須賀小景」と「あばはば」から。 「横須賀小景」 虹(にじ) 「僕はいつも煤(すす)の降る工廠(しよう)の裏を歩いてゐた。どんよりくもった工廠の空には、虹がーすじ消えかかってゐた。 僕は踵(かかと)をあげるやうにし、ちょっとその虹へ鼻をやってみた。すると、かすかに石油の匂いがした」 五分間写真 「僕は或(ある)晩春の午後、或若い海軍中尉と五分間写真を映しに行つた。写真はすぐ出来上った。しかし、印画紙に映ったのは大きなYといふ羅馬(ローマ)数字だつた」 「あぱぱぱぱ」 「保吉はずっと以前からこの店の主人を見知っている。ずっと以前から 或いは、あの海軍の学校へ赴任した当日だったかも知れない。彼はふと、この店へマッチをーつ買いにはいった。店には小さい飾り窓があり、窓の中には大将旗を掲げた軍艦の模型のまわりに、キュラソオの壜(びん)だのココアの缶だのが並べてある。 が、軒先に「たばこ」と抜いた赤塗りの看板が出ているから、勿論(もちろん)マッチも売らないはずはない。彼は店をのぞきこみながら『マッチをーつくれ給え』と言った・・・」 この「あばばばば」は、機関学校在職中の身辺小説で、主人公の名をとって「保吉もの」という。横須賀駅から学校への途中、よく立ち寄った店の娘が、やがて母となり、わが子をあやしている姿に再会するという、筋書きである。 |
「僕はいつも煤(すす)の降る工廠(しょう)の裏を歩いてゐた。どんよりくもった工廠の空には・・・」とは、「横須賀小景」のー部。写真は、今も米海軍基地の国道16沿いに残る工廠の塀。戦前は、高く、部厚く、見えたものだ |
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