明治の末、船越小学校の近くに旭座という演芸館があった。それがのちに、今の船越町六丁目の皆(かい)ケ作に移つて入舟亭となり、さらに仲通りに移つて船越館となつた。
船越館は、大正九年(一九二〇)末、火災に遭い、その跡に三友館ができたが関東大震災で倒れ、新たに船越の鎌倉道入り口に田浦劇場が開業した。大正十三年九月のことで、震災後の人々の心の憩いの陽となつた。
田浦劇場は、間口八間(十四b)で奥行十二間半(二十三b)、平屋で建坪は百坪(三百三十平方b)。定員は五百人。 館内には舞台、楽屋、観覧席、警官席、活動写真映写場、下足場、売店、非常口、
便所があった。初めは演芸一本でスタート、のちに松竹キネマと契約、活動写真館となった。
田浦地域には、ほかに二館あった。ひとつは榎戸(えのきど)の日之出常設館で、大正二年の開業。間口は四間半(ハb)で奥行八間半(十五b)、建坪は三十六坪(百十九平方b)。館内の席はー等、二等、普通に分かれ、二階にも席が。
もうひとつは、田浦にあつた互楽(ごらく)館。震災直前に、バラック式の建築で開業。震災後は本建築にし間口六間(十一b)で奥行十二間(二十二b)、定員四百人。二階はー等席が十五坪(五十平方b)あり、昼間、映画を上映できるのが自慢だった、という。
当時の映画、いや活動写真は無声映画。舞台のすそに弁士がいて、映画の登場人物のせりふを語った。
「東山三十六峰(ぽう)草木も眠る丑(うし)三つ時。やにわに起こる剣撃の響き…」といった名調子に、人気が集まった、とか。
当時、田浦劇場の映写技師として活躍した高橋徳太郎さんにご登場願おう。七十七歳、船越町六丁目にお住まい。
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