石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


松竹庵梅月 @  『「日清」後横須賀へ』
原文

京急田浦駅前の船越小学校わきを、東芝横須賀工場へと歩く。間もなく左手に、船越町六丁目の入り口。かつて、その奥は草花が咲き乱れた「花屋敷」と呼ばれた所。道沿いに俳人、松竹庵梅月が住まわれた家がある。 孟宗(もうそう)竹に覆われた山を背景に、ササの生け垣のたたずまい。門の左に「松竹庵梅月旧址(し)徒歩五分」の道標、石には、
「研(と)き上げし
   太刀(たち)の光や
   秋の水」
の句碑が。道標は以前、六丁目入り口にあったもの。今ここには、お孫さんー家が住んでおられる。 梅月は明治、大正、昭和三代にわたる旧派の伝統、蕪(しょう)風を受け継ぎ句作は数万、門弟は、全国に七千人近くいたという。 梅月は、明治七年(一八七四)、本県中郡に生まれ、本名は石井広吉。幼いころから俳人の母の指導を受け、句才を伸ばした。のちに東京・浅草の鳳尾園鼠年宗匠の門下生に。早くもニ十八年に、二十一歳で立机(りゅうき=宗匠つまり師匠)となった。 日清戦争直後、横須賀に来た梅月は、田浦町三丁目の静円寺近くに住み、海軍工廠(しよう)へ務める傍ら、門下の指導に専念。 大正の中ごろ、船越に引っ越した。工廠で働きながら、門弟の指導や全国的な仲間づくりに励むー方、隣近所の子供たちの育成に尽した。 子供たちといえば今、同じ町内に住む山田正平さんもそのひとり。お話をうかがった。「私は船越小の五年生のころ、梅月先生に書道を教えていただきました。子供心にも、立派な先生だと思いました。酒が縁でしょうか、私の父が『息子を見てくれ』とお願いしたのです」 山田さんは現在、東京拓本研究会や湘南拓本研究会のまとめ役。その道五十年一筋という方である。
原本記載写真
蕉風を受け継いだ俳人、松竹庵梅月は明治28年(1895)21歳で立帆(りゅうき)となった。写真は、横須賀市船越町6丁目に残る「松竹庵梅月旧址(し)徒歩5分」の碑。かつては、同丁目の入口に道しるべとしてあったもの

松竹庵梅月 A  『俳道一筋の後半生』
原文

梅月は、海軍工廠(しょう)退職後、俳道一筋に打ち込んだ。昭和十四年、前線の将兵たちを慰問するために、中国大陸へ渡った。十六年ごろから健康を害し、翌十七年二月十三日に逝去。六十九歳。墓は、逗子市沼間の法勝寺にある。十周忌に建てられた句碑には、梅月の辞世の句が刻まれている。
「すり鉢に
  なめつくされし
     蕗(ふき)の薹(とう)」
高弟、松竹庵酔月の書で碑の裏には、梅月の略歴が刻まれ「門下及ピ有志一同其(ソ)ノ雅徳ヲ慕ヒ翁ノ辞世ノ句ヲ建碑二刻シ以テ之(コレ)ヲ常二記念トス」と結び、昭和三十年七月建碑。また酔月ほか十四人の高弟の名も。 句碑は高さー・五b、幅九十aの自然石で、五十aの台座の上にある。珍しいことに、万葉がなでも辞世の句が刻まれている。「須里鉢丹那免川久佐連之蕗乃薹」というように。 句碑といえば、横浜市の杉田梅林の妙法寺に、
「まだ寒さ
月の光りや
梅の花」
一方、門弟の多かった伊豆の網代(あじろ)磯山に、
「幾(いく)千歳
  栄(さか)えて
  松は緑かな」
ここで、梅月らしい句をニつあげてみる。鎮守さま船越神社を詠んだ、
「木の実落ちて
  石段 ころり
   ころり哉(かな)」
関東大震災の時の句から、
 「草に臥(ね)て
   虫の声 聞く
    露営哉」
 梅月が、書道の大家でもあった語り草をひとつ。 昭和三年の天長節の日、船越小学校の校長室で、ある著名な書家と筆を競い、
 「虎(とら)千里
   龍 おどりけり
     雲の峰」
の句をくずして、虎の姿を書き上げた。

原本記載写真
梅月は中国大陸に渡った。写真は、「祝松竹庵梅月先生壮途、横須賀軍港船越睦(むつみ)保健組合」ののぼりの前に立つ梅月翁。この写真の裏に、自筆で「梅に行き桜に戻る慰問杖」の句が書かれている=市内船越町6ノ35石井能雄さん提供

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