石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


市立横須賀高女 @  『県下で3番目の設立』
原文

「女子二高等普通教育ヲ施シ以(モッ)テ女徳ヲ涵養シ並(ナラビ)処世二須要ナル智識技能ヲ得セシムル」を目的とした高等女学校規則が、県から告示されたのは明治三十四年(一九〇一)四月であ つた。修業年限は本科四年、補習科一年で技芸専修科二年。授業料は月額一円二十銭、技芸専修科がー円だった。 この三浦半島に高等女学校が誕生したのは、三十九年四月。女子実業補習学校が町立横須賀高等女学校に昇格した。県下では県立高女(のちの平沼高女)、厚木高女に続いて三番目。 校舎は、三浦郡横須賀町谷町、今の汐入小敷地内の谷町小学校に仮住まい。初代校長は北村包直で、生徒は百二十人だった。 翌四十年の市制施行に、市立高女となり翌年、平坂上の台地に新校舎が完成。建設費は三万一千円、今の市障害者福祉センターや県立青少年会館が建つ所。 大正二年(一九一三)に制服を定めた。上着は半長つまり、はんてんの型で袴(はかま)をはいた。袴の長さは踵(かかと)まで。すそはニつに割れていて、体操の時間は、それぞれヒダのすそのヒモで結ぶ。モンペに早変わり、という訳。 体操といえば、髪の乱れを防ぐためか、大黒帽をかぶった。履物は白足袋(たび)に下駄(げた)、ズックのかばんを、肩から下げて通学した。 大正五年一月。全校生徒が初めて京都、奈良へ修学旅行に出かけた。前の年、京都で行われた大正天皇即位ご大典の跡を見学するのが目的。翌六年から最上級生の関西旅行が、恒例に。 八年四月、定員を本科六百人、実科百人、補習科五十人とした。翌九年には、ニ階建て四教室を増築。その建設費は、ー万一千五百円だつた。
原本記載写真
明治末から大正にかけて、各学校で盛んにダンスが行われた。写真は、深田台にあった市立高等女学校(県立横須賀大津高校の前身)の運動会。数人がー組でフォークダンスをしている。平坂上、今の県立青少年会館の所である

市立横須賀高女 A 『日本雄心忘れめや』
原文

今の平坂上の高台、緑に包まれた校舎から聞こえた、「校歌」と愛唱歌「我(わが)校の四季」を紹介しよう。
『校 歌』
 一、
此の横須賀はかしこくも
皇居に程も遠からぬ
東京湾の要塞地
帝国一の軍港ぞ。
二、
此庭に建てたる学校は
其の責(せめ)
いかで 軽からむ
ますら男(を)
ならぬ女とて
日本雄(やまとを)心
忘れめや。
三、
前に見わたす海広く
うしろに続く山高し
学(まなび)はひろく
身に修(おさ)め
功(いさお)は高く
世に立てむ。

『我校の四季』
そのー(春)
谷間をこむる薄がすみ
朝日の影にきえゆけば
見ゆる限りは花の雲
かからぬ家こそ
なかりけり
そのニ(夏)
青葉の上に浮きいでて
雲間に高く聳(そび)えたる
富士の高嶺を窓に見て
昼も暑さを忘るなり
その三(秋)
しら浪よする白浜に
離れて浮くやかもめ島
海原遠く澄み渡り
夕日にかえる
真帆(まほ)片帆
 その四(冬)
米(こめ)が浜辺は
黄昏(たそが)れて
祖師堂 淡く
見えかくれ
常磐(ときわ)の緑
色かへぬ
松のみひとり
秀(ひい)でたり
その五(結び)
ここに学べる我友よ
操(みさお)は松に
才は 花
姿は富士を鏡にて
心は海にならはなむ

原本記載写真
深田台のー角。女学生たちの校歌と愛唱歌「我校の四季」の歌声が流れた。写真は、「前に見わたす海広く、うしろに続く山高し・・・」の校歌を口ずさみながらの大山登山中のひととき(昭和2年7月、本科2年生)=横須賀市本町3ノ19、叶福恵さん提供

市立横須賀高女 B  『三度変わった制服』
原文

平坂上の深田校舎は昭和四年まで。翌年には県へ移管、校名は『県立横須賀高女学校』と改まり、大津に完成した校舎へ移つた。 深田校舎最後の卒業生のひとり、馬堀町一丁目にお住まいの押田テイさんにお話をうかがった。 「大正十三年に入学して、昭和三年に本科卒業、翌四年に補習科を卒業しましたが、当時の本科の学級は南組、中組、北組の三組でした。 京浜急行の開通前でしたから、皆さん歩いて通学。鴨居の人で、雨の日に限って浦賀〜聖徳寺坂間を、石川馬車に乗った方がいます。 毎年のように海水浴の場所が遠くなりました。埋め立てが進みましてね。一年の時は春日(かすが)神社近くのー本松、二年は神社の下、三年は堀の内寄りで、四年は大津に近い砂坂。深田から往復とも歩きです。 制服は、在学中に三度も変わりました。入学の時は木綿、三年になると、セルやサージでもよく、四年で洋服でもよい、となりましたよ。着物と袴(はかま)の上下で生地はー反。羽織は、病気の時に届を出して着ることができました」 在学中の押田さんの家は、平坂下の三上洋品店。「夜二時ころまで人通りが絶えず、三時ともなれば、新聞屋さんの荷車の音。騒音が途絶えるのは、夜中のー時間ほどでしたね」と、お話は尽きない。  今、青少年会館わきを登りつめた所に、横須賀高女時代の門柱がー本、大切に保存されている。県立横須賀大津高校同窓会「たちぱな会」の会長、久保田寿枝さんに、そのいきさつを、うかがった。 「あの門柱は、青少年会館建設の時に掘り出されたものです。『大津へ運びましょうか』と、初代の館長さんからお話がありました。しかし母校と相談、学校があった所に保存するのがよい、ということになり、県のご好意で建てさせていただいた訳です。同窓生一同、心から喜んでおります」
原本記載写真
平坂上の深田台から大津に移ったのは昭和5年。同時に市立から県立に。写真は、県立青少年会館わきを登りつめた所にある、市立横須賀高女時代の門柱。卒業生だけでなく、横須賀にとっても貴重な財産だ。戦後、発掘さたもの

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参考文献・資料/リンク
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