石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


歌舞伎座・横須賀座  『大もての劇場、寄席』
原文

明治の末である。庶民の憩いの場、劇場は大滝町に春若座、若松町に歌舞伎座、浦郷に旭座、浦賀町高坂に寿座があった。一方、寄席は、高倉亭(山王=今のドブ板通り)、大滝館、谷川亭、若松亭(ともに下町)、湘陽亭(公郷)、近江(おうみ)亭(中里)。そのほか、平坂下やドブ板通りには、見世物の小屋も。 中でも歌舞伎座は、次いで開業した横須賀座とともに人気があった。だが、劇場とはいえ、芝居よりも出し物は桃中軒雲石衛門などの浪曲が大持てだった。大正二年(ー九一三)の統計によると、 興行日の平均はー座で百二十九日。客の一日平均はニ百八十人、興行日数はー月の十八日間が最も多く、三月の五日間が最も少ない。客の入りは、一月から三月までが多く、六月がー番少なかった。 横須賀座の広告が「現代の横須賀」(大正四年刊)に載っている。
「一日ノ極楽ハ
横須賀座ニ限ル
横須賀市大滝
演劇場 横須賀座」
寄席の高倉亭が、曲芸や奇術の色物で時勢に対抗したが、ついに浪曲をかけざるを得なかった。のちに、この高倉亭と張り合ったのが、下町のハ千代座、逸見町の福本亭だった、という。  ここで、エピソードをひとつ。大正の中ごろ、高倉亭に日参した工廠勤めの若者が、ついに落語家の世界へ。芸名は、古今亭今好(いまこう)。寄席がはねて古今亭一行が東京へ帰る時、彼も旅立とうとした。しかし「お前、東京は横須賀と違うぞ」と友人にいさめられ、泣く泣く廃業。それからは勤めそっちのけで、三浦半島を駆け巡り、芸を披露した。今好は、工廠を解雇されたが、横須賀に踏み止どまって、祭りばやしや演芸の師匠として活躍した。
原本記載写真
「家路を急ぐゲタの音で、ああ芝居がはねたなあ、と思いました」とは、下町で育ったお年寄りの話。写真は、横須賀市若松町にあった歌舞伎座。庶民の憩の場だった。明治から大正の横須賀には、劇場や寄席(よせ)が数多くあった

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