安浦町から上町方面への聖徳(しょうとく)寺坂を登る。京浜急行のガード手前の右奥に、赤門がある。ここの永島家は三浦一族の子孫でもあり、戦国時代の小田原城の北条氏支配下にあって、代官を務めた。 江戸時代では、三浦半島の総名主であり、庄屋を務めたが、また、この地域に
漁業が盛んであったことから、浜代官も兼ねていた。当時の関係文書は、すでに「永島家文書」として「漁業」、「海防」などにわたって刊行されている。
代々、永島庄兵衛を名乗っていたので通稱、「田戸圧」と親しまれた。その権限は大きく、たとえば、田畑を他人に売り渡す「有合(ありあい)」にも、永島庄兵衛の印が必要。古い屋敷は、今の京浜急行の線路の位置から山にかけてあった、とか。
「夜明け前」には「二十畳からある広間を奥の方へ通り抜け人一人隠れられるほどの太い大極柱の側を廻って十五畳、十畳と…」とあるほどの邸宅だつた。
家紋は、正紋に「五瓜唐花(ごかにからばな)」、代紋に三浦氏と同じ「丸三(まるにみつ)びき」。
ここの赤門は、江戸時代の屋敷門で、左右に長い棟を持つ長屋造り。もともと長屋門は格式によって、その規模や構造に制限があった。ここに、なぜ赤門が。三つの説がある。
大津陣屋が閉鎖された時、そこにあったものを田戸庄へ下げ渡した。当時、役所のものでないと、朱塗りは許されなかった、という。
浦賀の御倉所の関係者の門が、ここに移された。
鎌倉八幡宮寺の門を浦賀へ、と古文書にあるので、それがここへ。
門扉は古いが、柱や桁(けた)は何度か改築しているようだ。その歴史や建築様式は、今後の研究に待つところが多い。ちなみに、市内には金谷の福本家、佐野の永島家、佐島の福本家、秋谷の若命家、須軽谷の鈴木家などにも、長屋門が残されている。
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