大正六年(一九一七)一月十四日、横須賀軍港内の箱崎近くで軍艦「筑波」が沈没した。原因は火薬庫の爆発。対岸の逸見や汐入で目撃した市民は多い。今、八十歳以上のお年寄りは、よく、記憶しておられる。 死者はわずか七十二人にすぎなかったのは、艦体が傾かずに水平に沈んだこと
と、艦長・有馬純位の冷静にして果断な処置がよかったからだ、といわれる。
「筑波」は巡洋戦艦、排水量一万三千七百五十d。三十a砲四門、十五a砲十二門を持つ大型艦。日露戦争で戦艦「初瀬」、「八島」が機雷に触れ沈没し、わが主力艦隊に欠陥が生じたので、補充のため建造された。大正六年といえば、すでに戦艦「伊勢」や「日向(ひうが)」が進水し、「長門」も建造寸前の時だったので、「筑波」は最新鋭ではなかった。だが、それでもー万三千dの大型艦、しかも爆沈、海軍のショックは大きかった。
戦時中ならともかく、平時に軍艦が沈没することがよくあった。その第一号は、幕府が新政府に上納したアメリカ製木造船「翔鶴(しょうかく)丸」が伊豆沖で。明治・大正時代でニ十数隻も。そ
のうちで、話題の三つをあげてみる。
明治三十八年九月五日に「三笠」爆沈。原因は取りざたされたが結局不明。
四十三年四月十五日に、第六潜水艇が。艇長は佐久間勉(つとむ)。五十dで乗組員十五人。「小官ノ不注意二ヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス、誠二申シ訳無シ。サレド艇員一同…」と手帳に記した遺書は、長く日本人の心に刻まれた。
「筑波」爆沈の翌年、大正七年七月十二日に戦艦「河内(かわち)」が山口県徳山沖で。やはり火薬庫の爆発。一千五十九人のうち、死者六百二十一人。二万八百d、わが国〃ド級艦〃 の第一号艦だった。
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