その昔、三浦郡は御浦郡と書かれた。みうらの『み』は「真(マ)ト通ズ」とあり「美(ホ)ムル意」と。みうらとは、浦(海辺)が多く景色がすぐれる、という語意という。一方、三浦とは三つの浦
だとも。「三浦古尋録(文化八年刊)では「北に上手浦、南に下手浦、西浦ノ三ツノ浦ヲ合ワセテ三浦トイフ」。また、「横須賀案内記」(明治四十三年刊)では内浦(東京湾側)、下浦(三浦海岸方面)、西浦(相模湾側)で三浦と呼んだ、とある。
「三浦郡志」(大正七年刊)によると、郡内の村数は、江戸時代初めの正保元年(一六四四)には五十九力村、幕末の天保年間には、七十六力村を数えるに至った。
明治六年(一八七三)の大小区制の実施で、三浦半島南部(今の市西部地域と三浦市)が第十四大区に、北部(今の市地域大半と逗子市と葉山町)が第十五大区に。半島が、二大学区十四ヵ小区七十八ヵ村となった。
その後、九年に横須賀村と浦賀村が町に。十一年の郡区制で第十五大区長の小川茂周(しげちか)が郡長となり、汐留(今の京急汐入駅の所)の区務所が郡役所に改められた。
十七年の連合戸長制によつて、十五カ所に所長役場がおかれ、二十二年に町村制が実施。当時の町村は浦郷村、横須賀町、豊島村、浦賀町、衣笠村、久里浜村、北下浦村、南下浦村、三崎村、初声村、武山村、中西浦村、長井村、葉山村、田越(たごえ)村の十五力町村だった。
豊島村は豊島町となり、横須賀町と合併後、横須賀市に。中西浦村は西浦村、田越村は逗子町、浦郷村は田浦町になった。
大正七年(一九一八)、、三浦郡は、次の四町九力村。田浦町、浦賀町、衣笠村、久里浜村、北下浦村、南下浦村、三崎町、初声村、武山村、西浦村、長井村、葉山村、逗子町である。
西浦村は、のちの大楠村だ。ご存じのように下財の三浦郡は、一郡一町、つまり葉山町だけである。
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