「君が代」の曲の生みの親であり、初代の海軍軍楽長の中村祐庸(すけつね)が今の横須賀市西逸見町二丁目、鹿島神社近くにお住まいだった。
明治元年(一八六八)十月、東京へ向かう天皇ごー行を横浜港の各国軍艦が礼砲で迎え、軍楽隊が表敬の演奏をした。
イギリスの軍楽長は、ウイリアム・フェント。
中村は鹿児島市の出身で嘉永五年(一八五二)十月の生まれ。父は善太郎、母は千代。鹿児島藩の軍楽伝習生三十人の一員として、フェントから洋楽を学ぶ。
明治二年、海軍兵学寮に近い浜御殿(今の浜離宮)で、イギリスの皇族の歓迎会が行われることになり、接待係に英語がたんのうな原田宗助や乙骨(おっこち)太郎乙らが選ばれた。
フェントから「親善のために両国歌を演奏するのが慣習だ。日本のは何がいいのか」と聞かれた原田らは、とまどった。その時、乙骨が思いついたのは幕府時代、江戸城で毎年元旦に行われる「おさざれ石」という儀式の歌。原田が「その歌詞なら薩摩琵琶歌にあるので知っている」
といって歌った。これをフェントンが採譜して当日、演奏した。
だが、この曲は原田の歌を西洋音楽の耳で聞き編曲したので、ほかのレパートリーに比べて魅力的でなかつた、という。
ー般の兵隊は「ヒーフハオトトン、ヒーフハオッカハン」と皮肉って歌っていた、とか。
明治九年、軍楽長の中村は「天皇陛下ヲ奉祝スル楽譜改訂ノ儀上申」を海軍省へ提出。これが認められて彼自身が「君が代」の楽譜改訂委員として尽力。十三年十一月三日、皇居での天長節で改訂された曲が初演秦、二十一年から外国の公式の場でも演奏されることになった。
中村は、長く洋楽の普及発展に努めつつ海軍軍楽隊の基礎を築いた。
軍楽隊といえば「軍艦マーチ」作曲の瀬戸口藤吉、不朽の名曲「江田島健児の歌」作曲の佐藤清吉らが続出した。
中村は大正十四年一月十八日、七十四歳で逝去。墓は東京の青山墓地に。
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