教育勅語に次いで明治二十五年(一八九二)に式典で国歌「君が代」が歌われ始めた。その二年後のニ十七年に天皇、皇后の御真影(お写真)が各学校へ。
豊島小学校の沿革誌には「明治廿七年一月十五日、宮内省ヨリ聖上、皇后両陛下ノ御真影ヲ下賜セラル。首席教員、村長、学務委員ヤ村会譲員ノ総代等卜県庁二出頭シ知事ヨリ奉戴ス、生徒一同(中略)途中二テ奉迎、御安着…」とある。
各学校とも、御真影や教育勅語は校長室に保管、これを守り通すのに、校長や宿直教員は命をかけた。 そこで、昭和二年に県が示した関東大震災後の校舎復興建設基準に「御真影奉安殿ハ別棟トスベキコト」のー項目があった。
逸見小学校の場合、昭和三年秋に御大典記念として建設を決め、時の校長中村享三が中心となり、翌四年三月、校庭の南東の位置に完成した。鉄筋コンクリート造りの耐震耐火の堅牢な高雅なもの。保護者会や町民の寄付で完成した。
この耐震耐火の奉安殿の完成は、ある意味では、校長はじめ教員の命を守って
くれた、といわれる。
ここで「創立百周年記念としま」(昭和四十七年刊)の文を紹介しよう。奉安殿の建設は早いほうだった。 「大正十一年には、陛下のお写真をおいれする奉安殿がつくられました。この前をとおる時には、たちどまって深くおじぎをしました。このような教育のあり方は、昭和二十年の第二次世界大戦がおわるまでつづきました。
今の校章がつくられた大正四年ころ、朝礼の行事のーつとして、奉安殿の前に長い竹ざおをたて、君が代とともに、国旗をかかげました。そのころでは全国でもめずらしく、他の地方から、わざわざ参観にきて、ひじょうにかんげきしていったということです」
|