石井 昭 著 『ふるさと横須賀』
国定教科書 @ 『5時期に分け変遷』 |
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ここで、明治からの教科書の移り変わりを眺めてみよう。小学校国語のー年生用の場合である。 明治十九年(一八八六)に教科書検定制度が実施されると、文部省は基準となる教科書の刊行を始め「読書入門」や「尋常小学読本」を出版した。二十五年ころから国の検定を受けて、多くの教 科書が発行され、わが国の教科書の原形は、そのころ作られた、という。 国定教科書は、三十七年から終戦の昭和二十年まで使われ、その四十一年間を次のように五つの時期に区分けすることができる。 @尋常小学読本(国定第一期)明治三十七年から使用。「イエ・スシ本」と呼ばれた。単語にはいる前に、かな文字から始まり、黒い表紙でー色刷りの教科書。 「イ工・スシ本」と呼ばれるのは第一ページに犬、枝、スズメ、島の絵があり、 それぞれその頭文字、つまりイ、エ、ス、シが書かれているからだ。そのほか「カラカサ カザグルマ セキヒツ ゼ二」とか「ソデ ゾーリ ローソク トーロー コーリ ローカ」などの文が続く。 A尋常小学読本(国定第二期)明治四十三年から使用。「ハタ・タコ本」と呼ばれた。かなの単語から始まり、新出文字は上欄に出してある。絵入りで「ハタ タコ コマ」、「コトリ タマゴ ハカマ ハオリ」、「アサヒ マツ ツル シカ ウシ」と続く。 B尋常小学読本(国定第三期)大正七年から使用。『ハナ・ハト本」と呼ばれた。 第一ページは「ハナ ハトマメ マス」で、ハトに豆をあげる子供の絵が楽しい。 「ミノ カサ カラカサ」が次のぺージ。 「サル ガ カキ ノ タネ ヲ カ二 二 ヤリマシタ・カ二 ガ ニギリメシ ヲ サル ニ ヤリマシタ…」といった、猿カ二合戦の物語が登場。 どういう訳か、この教科書には、黒表紙と白表紙のふた通りがあった。 |
明治19年(1886)に教科書検定制度が実施されると、文部省は初めて基準となる「読書入門」「尋常小学校読本」などを出版。その後、多くの検定を受けた教科書が発行、昭和20年の終戦まで続いた。写真は、大正時代の授業風景 |
国定教科書 A 『一種類で全国共通』 |
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C小学国語読本(国定第四期)昭和八年から使用。「サクラ本」と呼ばれ、昭和一けた生まれには、なつかしい教科書だ。 さし絵、表紙とも色刷りの新鮮なものとなったが、内容面では、国民思想の強化のねらいがみられた、といわれる。 「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」から始まり、「コイ コイ シロ コイ」、「ススメ ススメヘイタイススメ」、「オヒサマ アカイ アサヒガアカイ」、「ヒノマルノハタ バンザイ バンザイ」と続く。また「一バンボシミツケタ」とか「アル日 ウサギトカメ ガ カケッコ ヲ シマシタ…」が登場した。 D国民学校用(国定第五期)昭和十六年から使用。「アサヒ本」と呼ばれた。 日の出に向かって手を上げる子供たちの絵に「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」とある。「ハト コイコイ」、「コマイヌサン ア コマイヌサン ウン」。さらに「ヒノマルノハタ バンザイ ヘイタイサン ススメ チテチテタトタ テテタテタ」とある。 国定教科書は国定を、「こくてい」と読まず「くにさだ」と読み、「くにさだ教科書」とも呼ばれた。国定教科書はー種類、全国共通が特色。つまり、南北に細長い日本列島の各地で、同じ教科書を同じ時期に、子供たちが手にした。 その功罪は大さかつた。全国共通なので、比較研究や指導法など都合の良い面もあったが、それだけに中央集権的で、画一的な教育といった欠陥は否めなかった。 一例をあげると、四月中ごろ「サイタ サイタ サクラが・・・」と学んだが、横須賀は季節的にタイミングがいいほう。だが、南の沖縄県は、はや夏の日差し。一方、北の北海道は春遠からじ。それでも「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」。 |
「サイタ サイタ サクラガ サイタ・・」こ小学国定教科書は「サクラ本」と呼ばれ、 昭和一ケタ生まれの人たちには、なつかしい教科書である。写真は、その国語読本。全国 共通なので比較研究や指導法などの利点もあったが、画一的な教育といった欠陥も |
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