佐賀県出身の中野健明が、明治二十二年(一八八九)に神奈川県知事に就任すると、私財を投じて毎年くすの木種子を購入、県内各小学校へ贈り始めた。中野は「国づくりの基礎を確かなものにするためには植樹と教育は同じ源泉」という信念に燃え、くすの木育てを奨励した。
二十八年ごろ三浦都内の各小学校へ贈られ、以来、八十八年後の今日その生長した姿は、横須賀市内では、逸見小学校、大津小学校、久里浜中学校などに見ることができる。(久里浜中の現在地は昭和二十三年まで久里浜小だった)。
逸見小では、苗木に生長した十七株のうち四株が健在だ。くすの木をめぐる卒業生の思い出は多い。同校PTA広報紙「くすの木」(九十六号)からー。
久保寺慎一さん(77)=西逸見町一丁目。「入学したのは明治四十五年でした。くすの木にはシナンタロウという毛虫がいました。木に登つて取り、虫の腸を酢につけてテグスを作って釣りをしたものです」
栗竹マサさん(75)=吉倉町。「くすの木を大事にするようにと、先生からいわれました。木のかげにかくれて、二人でジヤンケンをして、同じ側に顔を出すと負けという遊びをしました」
安田熊次さん(78)=東逸見町一丁目。「大正六年の卒業です。入学したころ、くすの木は高さ五bほどで目立たなかったが、校舎が木造二階建てのために、大きく見えました」
そのくすの木に学べ、と大津小の行方(なめかた)正芳校長は同校PTA広報紙「おおつ」(七十七号)で語っておられる。
「東京大空襲で焼け野原になった街で焼けた根かぶからー番早く芽を吹き出したのが、くすの木だといわれます。その力強さに感動させられます。焼けぽっくいのような根元から、奇跡的に生きかえった根強さ、困難に負けずに伸びる力強さと努力。それは、人間が生きていく上で最も大切なことだと思います」
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