石井 昭 著 『ふるさと横須賀』
横須賀海軍工廠 『全国から見物の人』 |
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明治十九年(一八八六)の県下の重工業で、百人以上の工員をかかえた民間工 場は、日本郵船横浜鉄工所のーカ所だけだった。 二年後、百人以上の工場は、全国で七カ所。最も規模の大きい三菱造船所でさえ七百四十六人、 前記の横浜鉄工所は、五百三十一人にすぎなかった。 だが当時、すでに横須賀造船所では、官営の軍需工場とはいえ工員が三千人以上も。 ちなみに、三十六年には六千五百人、四十三年にはー万一千人に。 また、わが国の民間企業で、夜間作業の照明に電灯を使い始めたのは十九年。 造船所は、それより三年も早かった。一方、東京や横浜に電話が登場したのは、 ニ十三年だが、造船所の電話は、その四年も前から。 造船所の名称は、明治三十年に横須賀海軍造船廠(しょう)と改められ、 三十六年には横須賀海軍工廠となつた。 船越町にあつた兵器廠は工廠の造兵部となつた。海軍工廠は、この造兵部のほか、 造船部、造機部、会計部、需品部(のちの軍需部)に分かれ、初代工廠長は海軍中将伊藤義五郎。 この工厭へ全国各地から見物人が押し寄せた。大山参詣(けい)の途中、話のタネに、という人たちも。 「横須賀海軍工廠及(および)軍艦観覧紹介手続」(大正四年刊)によると、 観覧希望者は市役所庶務課へ前日までに申し出、当日は市の吏員が引率。 構内の観覧順路は表門→建築科→鉄骨所→翼舎(こうしや)→練鉄所→石灰製造所→ 煉化石製造所→製缶所→製帆所→信号所→鋳造所→旋盤肇(さく)所→ 組立所→物揚げ機械(クレーン)→船渠(ドック)→船台所→製綱所→水溜所(走水からの水を蓄える)→裏門の順。 見物人の中には、時代の先端をいく諸施設に感銘、身内の若者に、海軍や工廠に身を投ずるように 勧めた人も少なくなかった、とか。 |
行き交う荷馬車にまじって、勤め帰りの主人を待つ母子の姿も。 給料のほとんどを飲み代にしてしまった人が多かったとか。 写真は、海軍工廠(しょう)造兵部の表門。今の横須賀市船越町、東芝電気横須賀工場の正門である |
横須賀海軍工廠 A 『巨艦の建造に拍車』 |
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工廠にとつて明治三十九年(一九〇六)は画期的な年であった。一月、三号ドックに次ぎ四号ドックが完成。二月、イギリスのコンノート殿下が視察。 十一月、明治天皇をお迎えして世界最大の戦艦「薩摩(さつま)」が進水。 排水量は、一万九千三百七十二d。当時の世界最大、最新鋭を誇ったイギリス戦艦「ドレットノート」よりも、排水量で千二百dも大きく、日露戦争の教訓を生かした傑作であった。 それに驚異的な記録を打ち立てた。 というのは工廠技術陣は、十五年前の四千二百dの「橋立」が最大の建造、しかも、 ニ万d近い巨艦をー年半で完成させたのである。さらに、翌四十年、一万四千六百dの「鞍馬(くらま)」も進水。 世界の列強は、わが国の造船技術の躍進に注目。「薩摩」、「鞍馬」の出現は先進国の巨艦建造競争に拍車をかけた。ついでに「薩摩」の後日談だが、軍縮条約の結果、廃艦の運命に。 十九年後の大正十三年九月二日に、相模湾で連台艦隊の実弾射撃の標的となって沈んだ。 ところで「鞍馬」建造の時にガントリー・クレーンが完成したが、四十四年に船台ともども佐世保や舞鶴へ。戦後しばらくの間、市民の目に止まっていたガントリー・クレーンはニ代目で、大正二年(一九一三)二月に完成したもの。 規模は、長さは約二百五十b、幅は約三十五b。起重機は三十dつりー、十dつりニ、二・五dつりは四十二もあった。 イギリスのサー・ウィリアム・アロル会社と三菱造船所の合作、その建設は世紀の大事業だつた、という。 なおクレーンは、大正七年に三万三千dの戦艦「陸奥(むつ)」建造にあたって後方を延長、超大型艦建造も可能となった。 |
造船技術の躍進により、先進国の巨艦建造競争は激しくなった。そういう時代を背景に「鞍馬(くらま)」建造の時、国道16号沿いにガントリー・クレーンが完成した。 写真は、二代目のクレーン。戦前の横須賀にとってシンボルの役を果たしていた |
横須賀海軍工廠 B 『服装で従業員識別』 |
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横須賀造船所に始まる海軍工廠(しょう)は、慶応元年(一八六五)から昭和二十年までのハ十一年間、存在した。その間、従業員は職工→工夫→職工→工員と呼び名が変わった。 「海軍職工規則」(明治三十七年制定) では職工を定期職工、通常職工、見習職工に分けた。 定期職工はいわば年期奉公。年数は人によって異なるが、一年から最高十年、勤め上げると、満期といって手当が出た。満期後は雇継といい、改めて年期を定めて勤めた。 「規則改正」(明治四十三年)で職工を工手(こうて)、組長、伍長、並職工の四階級とした。 見習職工は金ボタンの制服に制帽、並織工は詰めえり服やナッパ服、伍長になると上着は黒で、マルに伍の字の入った記章。 組長ともなると、黒服の上下でマルに組の字の記章で堂々たる姿だった、といわれる。背広にネクタイは工手とその上の技手、技師だった。 組長以下は札場の門から入り、かけてある自分の木札をはずして、各自の職場の札場へかける。 時刻がくると札場は閉じられ、遅刻の烙(らく)印と上司の説教と相成つた、という。 三浦半島各地から工廠への通勤は大変だった。毎朝三時、四時起き。大楠からは大楠山を越えて池上、坂本、汐入を経て工廠へ。北下浦からは、あだ(栗田)道を通り佐原、法塔、佐野から豊(とよ) の坪、汐入を経て工廠へ。 通勤は明治、大正のころは、わらじばき。腰に予備をーつぶらさげて歩き通した。麦めしに塩じやけ、たくあん程度の弁当も腰に。腰弁という言葉も生まれたが、当人の苦労をよそに隣近所は「気楽でいいな」とうらやましがった。はきものも、わらじがゴム靴や地下たびに。革靴は、大正も末から。 昭和七年に年期の定期職工が廃止。九年に臨時職工が設けられ、さらに一二年制定の「海軍工員規則」で職工の呼び名が工員に。階級も工長、工手、職手、一等工員、二等工員の五つになった。 一等工員が、今までの伍長に相当した。 |
三浦半島各地から海軍工厭への通勤は、わらじぱきだった。写真は、工廠祝捷(しょう)会記念。 大きないかりに、トンボの飾りを付けた山車(だし)が見える(明治37年ごろ、今の米海軍基地入り口辺り) |
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