石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


電話交換  『横浜より4年早く』
原文

わが国に電話が登場したのは、明治十年(一八七七)十二月。 工部省という官庁が、アメリカから電話機二台を輸入したのが始まり、 アレキサンダー・グラハム・ベルが電話機を発明した、翌年のことである。 官庁関係に次第に取り付けられていったが、一般への実用化は、二十三年十月に東京〜横浜間が手始め。 当時の「東京・横浜電話加入者人名表」(明治二十三年刊)によると、東京で百九十六、横浜で三十。 東京の場合、電話番号が二百六十九番まであるが、七十三カ所が欠番。 その辺の事情を、当時の新聞の見出しからうかがってみる。
 ◆ 電話加入者意外に少なく
    「 交換開始又延期」
  (明23・1・26 毎日)
 ◆ 東京横浜電話=申込絶無
   「文明の利器、不用」
 (明23・1・29 中外商業)
   ◆ 電柱制限法未解決で
     「電柱が立たず」
  (明23・2・28 東京日日)
 ◆ 電信恐怖から電信恐怖へ
   「コレラは伝染しないか」
  (明23・2・3 郵便報知)
ちなみに、年間使用料は東京で五十円、横浜で四十五円。米一升(一・四`)七、八銭、炭一俵二十五銭のころ。 自宅に電話のない人は郵便電信局内の電話所へ。市内はー通話五分間で十五銭。これが三十五年八月には、 一挙に五銭に値下げされた。今の赤電話は、大正末まで自働電話と呼んだ。 わが国初の電話交換局は、横浜市居留地二百二十三番地に。 今の中区日本大通りのー角、横浜電話局のある所。ビルの、かげに「電話交換創始之地」の碑が建つ。   電話が横須賀に現れたのは、軍事上の理由で、横浜より四年も早い明治十九年。 もちろん電気の場合と同じように、横須賀造船所構内であった。 それから十九年後の三十八年に、一般の家庭へ普及し始めた。
原本記載写真
遠方に通じる電話は、時代の先端をいくものだった。 電話の交換嬢は婦人の職業として最適。だが東京では自動式電話交換機の導入で、失業者がふえていった。 写真は、大刀12年ごろの電話交換風景=「開かれたテレトピアへの道」提供

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