石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


ガス会社  『大正元年から供給』
原文

横須賀瓦斯(ガス)株式会社は、明治三十九年(一九〇六)に発足した。 資本金はニ十五万円。翌四十年には、横須賀電燈株式会社と合併、社名が横須賀電燈瓦斯会社となつた。 四十三年十月から市内のガス管埋設工事を始め、大正元年(一九一二)十月二十二日からガスの供給。 その間、横浜電燈株式会社と合併した。当初、ガスを利用した戸数は百十三戸、翌二年には、 千百二十九戸と増えたものの、まだ市内全戸数の八%。その後、利用の戸数は、ふえ続けた。 昭和三年(一九二八)八月に電気部門と分離、ガス部門によって関東瓦斯株式会社が発足。 ガスの製造は、若松町八十八番地、今の若松町一ノニ一、東京ガス横須賀支店の位置に。 ガス発生炉は水平式で七基あった。浦賀にも、大正二年八月に浦賀瓦斯株式会社が資本金五万円で発足。 同じ水平式の発生炉がー基。 話はとぶが、両社は、昭和二十一年二月に合併、東京瓦斯株式会社に。 横須賀と浦賀はそれぞれ工場となり、ガスの供給に励んだ。 翌年九月、横須賀工場は発生炉六基(一日一万八千立方b)、圧送機(一時間千八百立方b)、 ガスタンク(七千立方b)の施設で、一日当たり石炭五・七dを使って三千四百立方bを供給。 対象は、旧市内のニ千一戸で、口数は約三千七百。 一方、浦賀工場では発生炉三基(一日千百三十二立方b)、ガスタンク二基(千立方b)の施設で、 一日当たり石炭二・七dを使って千四百立方bを供給した。  東京ガス横須賀支店の資材担当、中野倉義さんにうかがった。 ガスタンクの当時からのお勤め。 「燃料の石炭は、小川港か安浦の ”重箱”に着きました。 特に”重箱” は回りが平ら、せせこましくないので、貴重な存在でした。 社内の自動ばかりで、石炭やコークスをトラックごと量れました。戦後間もなくのこと、 よそになかったので、他の会社が量りに来ましてね。使用料はー回、百円でした」。
原本記載写真
大正の初めごろ、横須賀市内のガス利用は1000戸を越えた。 全戸の8%に及んだ。写真は、市内若松町1丁目にあったガスタンク。 戦前派にはなかつしい景観である。今の東京ガス横須賀支店の所である

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