横須賀製鉄所の開設後、埋め立てによって市街地ができ、特に小川町や若松町
の誕生で、横須賀の中心地、今の下町が形づくられた。
夜はキツネが出た、という。竹やぶの平坂(ひらさか)に小道が開かれ、今の上
町方面へ行き来できるようになったのは明治十年(1877)ころだった。
文化会館の所に、十二年に海軍病院が開設され、二十九年には聖徳(しょうとく)
寺坂上のー角に、三浦都役所も。
ところで、深田といえば、池の端(はた)の池。横須賀町から衣笠村へ通ずる途中、
風光明媚(ぴ)で行き来する人々が足を休めた。
郡役所へ来た人や造船所勤めの人たちが、池の景色を愛(め)でながら、「そばや春日野(かすがの)」で、一服していく
のが楽しみだった、とか。春日野は、今の上町三丁目、「たばこや呉服店」の所だ、といわれる。
当時、春日野には池に面して桟(さん)橋があり、そばや天ぷらでー杯やりながら、魚を釣ったり、屋形舟を楽しんだそうだ。
この池は、明治三十年ごろから四十四年にかけて、次第に埋め立てられ、その名残りが、つい数年前まで、後藤産婦人
科病院の中庭にあつた。
豊島小PTAで、生涯学習のきっかけをつかんだ母親たちのグループ「三浦郡豊島町をよく知る会」の会報「みち」
(十五号)によると、埋め立ての時、子供たちが捕まえたー匹の蛇を、通りかかった、「きくや」の先々代、小田寅之助さんが
「これは池の主(ぬし)である弁天様の化身に違いない」と譲り受けた。
そして日ごろ信仰する江の島弁財天に参拝、「妙竜法徳弁財天」の名を受け、商売繁昌の
守り神とした。この弁財天は、池の端小公園にある。
ちなみに、池の端通りに街路灯がついたのは昭和三年ころ。その時、通りの名
称を募集したところ「弁天通り」が当選。
毎月十一日の弁天市は、昭和三十年ごろから始まつた。
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