「瀟洒(しょうしゃ=さっぱりして清らか)清趣の公園。
その公園が黄塵(こうじん)高き市中に、しかも山上、清風をそよがして翠朶(すいだ=枝)緑葉に
滴(したた)るばかりの趣味を漲(は)らしているので更(さ)らに眼下に市中を収め、
展望に海港のー部を臨んでいるのであるから市人は固(もと)より探光の客も相携(たずさ)へて
三々五々、常に絶ゆることがない。されば掛け茶屋もある。
休憩台もある。すべての設備も整ひ市の公園として愧(はずか)しからぬ体裁を貝(そな)へて
山上にはー基の碑の高く聳(そぴ)へているのは殉難職工の記念碑である」
これは、「現代の横須賀」(大正四年刊)に書かれた諏訪公園である。
浦賀公園(愛宕山)に続いて、明治三十三年(一九〇〇)に諏訪町、今の緑ケ丘の諏訪神社裏山一帯を公園に、
という動きがあった。これは東宮(とうぐう=のちの大正天皇)ご成婚の祝賀事業で、
発起人は、初代市長となつた鈴木忠兵衛や風戸精一、岩田武弥太ら。
計画はー時中止となったが、四十五年に、やっと開園された。
公園には戦前、海軍工廠工友会によつて、銅柱の殉職工員の招魂碑が建てられてあった。
また、造船所建設に尽くしたウエル二ーと小栗上野介の胸像があったが、戦後は臨海公園へ移転された。
この山は、かつて市民に八幡(はちまん)山と親しまれていた。
慶応年間(一八六五〜七)、大津にあった細川藩陣屋の八幡社を、この山上に移した。
開設早々の製鉄所の守護神としたので、この名がついた、とか。
戦前、ここには小動物園もあった。主役はニ頭のクマで、横須賀っ子のアイドルだった。
その檻(おり)の跡に今、供養の碑が建つ。なお、緑ケ丘学院高校の所は、かつては高等八幡山小学校。
その講堂で、大正四年(1915)九月、市主催の横須賀開港五十年祝賀会が行われた。
|