「山の上には木の翠(みどり)、波の果てには雲の峰、夏は涼風を浴衣(ゆかた>
の袖(そで)に孕(はら)ませて・・・」といわれた大津海岸に、
海水旅館と銘打った「大津(たいしん)館」が開業。明治二十九年(一八九六)のことである。
二代目の浦賀町長を務めた、地元の石渡真三郎(まさぶろう)が中心となり、
土地の繁栄を願っての建設だった。場所は、今の京急大津駅に近い、かづさ屋呉服店の
やや堀の内寄り。今は、すっかり埋めて立てられ、大津町一丁目の家並みが続く。
大津館は、当時としては、近郷に類をみない構えの旅館。その敷地は約五千平方b
建物はニ階建てで延べ約千七百平方b、客室は大小会わせて約八十室、畳の数はニ百七十枚も。
横須賀から浦賀にと向かう道沿いに、えんえんと続く板塀や、門灯を掲げた表門が、
行き交う人の足を止めた、といわれる。
ここで真三郎のお孫さんのひとり、市内馬堀町二丁目の根岸鈴子さんに、大津館の片鱗(りん)をうかがった。
「九十三歳になる叔母(おば)から聞いた話ですが」と前置きして、こう話された。
「素晴らしい建物だったそうです。叔母が、子供の時でした。大広間のギヤマン切り子のシャンデリアから落ちた小さ
な飾りを拾い、宝物のようにしまつておいた、とか。今でいう、プリズムというのでしょうか。
日光にあてては虹(にじ)のように反射する光を見て、喜んだものでした・・・」
さて大津館は、十年後の明治三十九年、東京・日本橋の鰹(かつお)問屋に九千円で買収され、
旅館の名は(勝男(かつお)館」に。
「三浦繁昌記」(明治四十一年刊)には、「当館は海浜にありて海は遠浅なれば御子供衆にてもあぶなげなく、
実に世界第一の海水浴場なり。佐藤医学博士そのほか各諸大医が転地療養に適し候(そうろう)事
を証明せられ、かつ滞在にも最も安価なり(後略)」とある。
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