石井 昭 著 『ふるさと横須賀』
大津海岸 『かつては白砂青松』 |
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「ある夏、横須賀の先の大津海岸に君、森田、僕、三人で行っていたことがある。 佐久間は、どうだったか。あの松男館に一緒に泊つていたか、それとも横須賀の 家から毎日通って来たのか、よく覚えていないがあの時、横須賀で四人で撮った 写真が、今も僕の家に残っているが、裏に『明治二十九年七月横須賀に遊ぶ時これを写す』 と僕の下手な字で書いてある」 これは、友人あての手紙の形式で書かれた志賀直哉の「触(むしば)まれた友情」 (昭和二十二年刊)のー部。 かつての大津海岸は、今の三春町との境、砂坂のお地蔵さんの下から馬堀・走水間の トンネル口まで、ゆるく長い曲線を描いた砂浜続き。特に大正のころは、 枝ぶりのよい松があちこちに生え、県下でも、有名な遠浅の海水浴場だった。 ここは旧制第一高等学校、つまりー高の水泳部、発祥の地でもある。 民俗学者、柳田国男は、「故郷七十年」(昭和三十三年刊)で「私たちは級友の 中村雅治を通して、その実家にあたる石渡家にー膚脱いでもらうことに成功した。 夏期の水泳合宿所が石渡家に近い浦賀と大津との間に出来、すつかり石渡家 の世話になった。毎夏、五十人も日七十人もの若者が出入りし・・・」と語っている。 一世を風靡(ぴ)したといわれる「一高寮歌」に、「大津の浦にもののふの」と歌われている。 歌といえば「日の出かがやく横須賀は、並ぶ御艦(みふね)の花がすみ」で 始まる戦前の「横須賀音頭(おんど)には、 「大津 馬堀へ浦伝い 海の家まで 浜つづき 花の絵日傘(がさ) 浜つづき 」 とある。 |
大津から馬堀こかけての海岸は、遠浅で水がきれいな海岸として長い間、市民に親しまれてきた。 横須賀市立の各学校は、海水浴を行事に取り入れていた。 写真は、大正14年(1925)ごろの山崎尋常小学校の子供たち=大津海岸で |
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