石井 昭 著 『ふるさと横須賀』
三富屋 『軍港旅館の“重鎮”』 |
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横須賀の旅館について「横須賀繁昌記」(明治二十一年刊)には、このように書かれている。 「本港、旗亭(はたご)の名あるものは元町(今の本町)三富屋を以て首(かしら)とし、 次は汐入町の三浦屋と為(な)す。 汐留町の鈴木屋は三階高く街道に聳(そび)へ、 湊町の松阪屋と三浦屋支店はさ棲面(ざしき)海に枕(のぞ)んで百景頗(すこぶ)る好し。 又梢(やや)これより劣るものは湊町の鈴木と中村屋、稲岡町の松阪屋と三浦屋両支店」とある。 そのころの宿賃は、上等五十五銭、中等四十銭、並二十銭、とか。 ところで、代表的な旅館、三富屋は「軍港旅館の重鎮として陸海軍の御用を承はり、 紳士紳商の定宿」であった。 もともと三富屋は、三浦半島の旧家たる三富長兵衛から分家、初代の元長(もとなが)は医者、 二代目の利右衛門は米酒業、三代目も利右衛門を名乗り三富屋を開業。 「三浦繁昌記」(明治四十一年刊)には、次のような広告が載っている。 「ヨコス力元町 鎮守府東門マエ 三富屋 電話(二十九番)」 ▼弊館は市の枢要の位置有之(これあり)諸官衛は勿論(もちろん)御商用向 の御方にも至極、便利に、有之候。 ▼弊館は横須賀停車場より六丁(約六百六十b)ばかり順路はー筋道にして、 最も繁華の道に有之候。 ▼弊館の料理は御手軽にして新鮮なものを選び、御口に叶(かな)ふべく様、 精々、注意可仕(つかまつるべく)候。 ▼弊館は御滞在の御客様には、特に勉強仕(つかまつ)り、親切丁寧(ていねい)に 御取扱い可申(もうすべく)候。 ▼弊館は御見学等に御投宿の御客様には出来る限りの御便利を旨として万事 勉強可仕候へば、何卒(なにとぞ)御引立の程、伏して奉希(ねがいたてまつり)候。 |
「横須賀案内記」(大正4年刊)には「創業約80年もっぱら確実、親切、勉強を家憲として 今日にいたれり」とある。写真は、横須賀鎮守府前、今の米海軍基地入口前にあった旅館、 三富屋。宿賃は55銭、40銭、20銭の 3種類だった |
寄稿・補稿欄 |
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明治から大正期にかけて横須賀で三富屋を経営した三富利右 衛門は横須賀商業銀行の役員をしており大正9年当時川崎町(川崎市川崎区)に あった川崎共立銀行と合併して出来た共信銀行の役員にも就任している。その後 昭和2年に至り共信銀行は破綻して清算管財人の手に委ねられる結果となった。 そのとき共信銀行の役員をしていて後始末をしたのが三富利右衛門の子供の三富 栗松、持丸壽輔(横浜市鶴見区)、森幸次郎(川崎市川崎区)、馬淵曜(横須賀 市)、小串清一(横浜市)、星川健之助(東京)の6人であった。森幸次郎の事 は川崎区誌研究会に於いて近日中に発表します。(野口貞之) |
日本紳士録の第3版(明治29年出版)によると当時の三富利右衛門 は旅人宿経営・営業税として5円28銭と地租6円25銭を納めていた事が判る 。下って明治31年の日本全国商工人名録の横須賀町に記載があり旅人宿として 三富利右衛門が掲載されているそれによると営業税19円を納税していて当時と しては大変に栄えていた事が判る。(野口貞之) |
参考文献・資料/リンク |
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