石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


記念艦三笠 @ 『日露戦争で大活躍』
原文

潮風が心地よい甲板に立つと、だれしも深呼吸をしたくなる。ここは横須賀市 稲岡町無番地、白浜海岸のー角。きょうも遠来の見学者でにぎわう記念艦「三笠」だ。 その経歴は・・。今からハ十六年前の明治三十三年(1900)、イギリスのピッカース造船所で進水。 四年後の日露戦争では連合艦隊旗艦として活躍。その後、軍縮会議の結果、大正十五年(1926)に、 廃艦になるところを記念艦として、現在地に保存された。 しかし、太平洋戦争後の昭和二十年以後、世相を反映して荒廃、一時は、艦内にダンスホールが出現した。 その後、三十六年に復元、昔の姿に戻ったのである。  日清戦争後のわが国は、明治二十八年に、清国から譲り受けた遼東(リャオトン)半島を、ロシア、ドイツ、フランス による三国干渉によつて、泣く泣く返還せざるを得なかった。   臥薪嘗胆(がしんしょうたん)。わが国は国家予算の三割を投じて十ヵ年計画で軍艦建造を打ち立てた。 戦艦六隻、装甲巡洋艦(後の重巡)六隻の「六・六艦隊」プランである。 当時、わが国の建造能力では四千三百d程度の「橋立(はしだて)」が最大。 「六・六艦隊」プランの計十二隻は全部、ヨーロッパ先進国に発注した。 まず艦隊はー万二千d級の「富士」「八島」、一万五千d級の「敷島」「朝日」「初瀬」「三笠」で、 いずれもイギリス製。一方、装甲巡洋艦のうち「浅間」「常盤(ときわ)」「出雲(いずも)」「磐手(いわて)」 もイギリス製。「八雪(やくも)」はドイツ製、「吾妻(あずま)」はフランス製であった。 連合艦隊は、戦艦を中心の第一艦隊、装甲巡洋艦を中心とする第二艦隊で編成、 この型式は、太平洋戦争まで踏襲された。
原本記載写真
記念艦「三笠」 は15,000トン、明治38年(1905) 5月の日本海海戦で、空前の大勝をした連合艦隊の旗艦だった。 横須賀市稲岡町、白浜毎岸に接岸、固定されて60年を超える。 写真は、同艦と東郷平八郎元師の銅像

記念艦三笠 A 『敵の直前で大転回』
原文

連合艦隊司令長官の東郷平八郎は、明治三十七年(1904)二月六日午前一時に、 旗艦「三笠」へ各級指揮官を集め、日露開戦に伴う作戦を発令した。 連合艦隊の排水量は、合計約二十二万d、ロシアのほうは太平洋、バルチック、 黒海の三艦隊合計約五十二万d。開戦草々、今の中国東北部に当たる旅順港を根拠地とした太平洋艦隊と対決。 黄海の海戦や旅順口の閉塞(そく)に全力を尽くした。 旅順口の閉塞といえば、広瀬中佐と杉野兵曹長。二人とも横須賀には、縁が深かった。 一例をあげよう。三十五年ごろ、船越町に下宿していた杉野から、彼の友人を紹介され結婚した人が、 つい先年まで、汐入町でご存命であった。 さて、形勢不利とみたロシアは、三十七年十月にバルチック艦隊を発進、はるば るとヨーロッパからアジアへ向かわせた。 翌年五月二十七日午前二時三十分、南方海上の「信濃丸」から「敵艦見ユ」を 受信した連合艦隊は、沖の島北方海域に進出、敵の出現を待つた。 ここでエピソードをーつ。激戦の最中に敵艦を見分けねばならない。 ロシアの艦名は難解で、日本の水兵にとって覚えにくい。ロシア艦名記憶法の妙案を考え出した。 なじみの深い日本語に変えてしまうのだ。 戦艦「クニヤージ・スワロフ」は「故郷(くに)のおやじがすわろう」、「アレキサンドル三世」は 「呆(あき)れ三太」、「ボロジノ」は「ぼる出ろ」、「オスラピア」は「押すとびしゃ」、 「アリヨール」が「蟻(あり)寄る」、海防艦「アプラクシン」が「油ふきん」、巡洋艦「ドミトリ・ドンスコイ」が 「ゴミ取り権助」 話を戻そう。二十七日午後一時五十五分、「三笠」は全艦に「皇国の興廃此ノ一戦二在り、各員一層奮励努力セヨ」の 信号を示すZ旗を掲げた。その直後、「三笠」以下は敵前八`で突然、大回転。 戦史に名高い「T字戦法」だ。敵弾による水柱の間を進むこと約二分、距離六千四百bの所で猛反撃に転じたのである。
原本記載写真
激戦の最中に敵艦を見分けねばならない。日本の水兵たちにとってロシアの艦名を覚えるのに苦労したという。 写真は、横須賀商工会議所裏にかかっていた三笠橋。ゲタでカラコロと歩く音に風情があった(昭和4年ごろ)。

記念艦三笠 B 『命中していたら…』
原文

日本海海戦 明治三十八年五月二十七、八日の激戦で「三笠」以下の連合艦隊は、 バルチック艦隊の十九隻を撃沈、七隻を捕獲。その主力を全滅させた。 ロシア側の戦死者は四千五百四十五人、捕虜六千百六人。 わが国の戦死者は百十六人で、水雷艇三隻を失った。 結果的には完勝したが、ピンチがニ回はあった。そのーつ。 連合艦隊は「五月二十五日午後五時まで待機、その後は 津軽海峡方面へ移動」を決定。性急に、これが実行されていたら、日露戦争の勝敗に影響があったかもしれない。 いまーつは、敵十二インチの砲弾で三笠艦上の松村副長以下十一人が死傷した時、司令長官東郷平八郎の胸すれすれに 弾片が飛んだ。もし東郷に命中していたら海戦の運命は・・・。 さて凱旋(がいせん)観艦式は、明治三十八年十月二十三日、明治天皇をお迎えして横浜沖で行われた。 この日、旧ロシア艦十一隻が、それぞれ日本艦名で参列した。 連台艦隊の解散にあたって、東郷は部下将兵に訓辞。「武力は艦船や兵器のみにあらずして、これらを活用する無形の実力 にあり」、「百発百中のー砲よく百発一中の敵砲百門に対抗し得る」と力説し、 「勝つて兜(かぶと)の緒を締めよ」と結んだ。この文も、名文章家の秋山真之参謀の作である、といわれる。 「三笠」は現在、財団法人三笠保存会が「永久にこれを保存、民族精神の昂(こう)揚に資する」ために管理、 運営にあたる。事務局長の坂本さんや総務課長の平修さんの話によると。 「三笠の大修理は防衛庁予算。運営や小修理はー切、有志による保存会費と観覧料金で賄う。見学者は少しずつ増えて いる。若い層へのPRを続けていきたい」 また、資料課の進藤さんは「まだまだ貴重な資料があるので整理を続け、皆さんのお役に・・・」と語る。 「記念艦三笠」を結ぶにあたってーつ。 先年、京都市右京区で杉山清七さんが亡くなった。九十八歳。三笠艦上で日本海海戦を体験した存命者は、一人もいなくなった。 ちなみに東郷平八郎のお孫さんにあたる東郷一雄(かずお)さんは、千葉県船橋市にご健在、という。
原本記載写真
横須賀市稲岡町、白浜海岸に接岸されている記念艦「三笠」 は財団法人・三笠保存会が管理、運営にあたっている。 写真は、東郷平八郎連合艦隊司令長官が、各指揮官を召集し、日露戦争の詔勅を伝えた艦内の会議室

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参考文献・資料/リンク
横須賀市市立図書館
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