石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


東郷平八郎 @  『イギリスへ”留学”』
原文

東郷平八郎は薩摩藩士、吉佐衛門の四男として弘化四年(1847)十二月、 鹿児島は加治屋(かじや)町で生まれた。 この辺境の町こそ、相前後して近代日本に尽くした西郷吉之助(隆盛)、大久保市蔵(利通)を出した所でもある。 ^平八郎が九歳の時、安政三年(1856)、藩主の島津斎彬(なりあきら)は水軍(海軍)を設け「水軍万(かた)懇望 の者は支配頭(がしら)へと」と藩内に通達。 その時、父吉佐衛門は、子供たちに藩主の深慮遠謀を説き「将来は水軍に進め」と諭した。 万延元年(1860)、平八郎は十四歳の時、一年早く元服。そのニ年後の文久二年(1862)、 島津藩の行列を横切ったイギリス人を殺傷した、世にいう生麦事件がきっかけで、薩英戦争の火ぶたが切られた。 イギリス艦隊が薩摩沖に出現。迎えるは十カ所の砲台八十二門の砲。特に平八郎は十五歳、母益子の見送りで出陣した。 母は、ただー言「負くるなよ」といった、という。 平八郎は、万雷の如く轟(とどろ)く砲声の中で、イギリス艦隊の底力を見、わが薩摩藩の貧弱さを思い知らされた。 「海より来る敵は海にて防ぐべきだ」と悟つた。 のちに平八郎が、海軍留学生として渡ったのは、この教訓を与えてくれたイギリスだった。 留学は、明治四年(1871)から四年間の予定が七年間に延長。 その間、実は平八郎にとってー大事が起きた。西南戦争である。彼のー族は挙げて西郷勢に加わり、実兄は官軍の砲火に散つた。 イギリスで伝え聞いた彼は、留学の仲間に語つた、という。「西郷先生に事あらば、わがー門はかくならむとは、かねてから推測していた。 せめては自分だけなりとも、今は技術の修行に努め、いつの日か、何かのお役に立ちたい」。
原本記載写真
東郷平八郎の初陣は16歳の時の薩英戦争である。母親の益子=写真=は、ただー言「敗くるなよ」といって、出陣を見送ったという。 のちに平八郎は、イギリスへ7年間も留学した。後日のためによい勉強の機会だったとか

東郷平八郎 A  『在留邦人の保護に』
原文

明治十一年(1878)五月、イギリスから帰国した平八郎は「比叡」(ひえい)に乗り組む。 七年の空白のためか、彼は海軍のしきたりをよく知らなかったらしく、部下に自己流の号令をかけた。 同僚がなじったところ「上官が部下に向かって発すれば、これすなわち命令である」といって、屈しなかった。 十四年には、薩摩藩士海江田信義(のちの枢密顧問官)の長女てつと結婚。 この年、「天城」(あまぎ)の副長となった。 そのころ、下関港に停泊中のことである。艦長不在の折、外国の旗艦が入港。 その司令官が大佐だったので、平八郎は大佐相当の定数の礼砲を放って歓迎したところ 「大佐だが純然たる司令官だ。司令官相当の礼砲を・・」と相手は交渉してきた。 平八郎は、失礼を謝罪し、改めて礼砲を放った。しかし全部の数ではなく、単に不足の分だけ発砲した。 それを見た相手は、ますます憤激したが、平八郎は取り合わず「両方舎わせれば、司令官の礼砲の数になる」と、答え通した。 その平八郎は、明治二十年前後、健康を害し転地療養の日々を送つた。 この数年は、彼の生涯の沈滞期だつた、といわれるが、この間に積まれた国際法の研さんは、やがて、その実を結ぶ時を待っていた。 健康が回復。二十三年五月に呉(くれ)鎮守府参謀長として、司令長官の中牟田(なかむた)倉之助を補佐。 翌年十二月に「浪速」(なにわ)の艦長に。そのころ、ハワイに異変が起こり、在留邦人の保護のため急行した。 ホノルル港に停泊中、政治犯としてハワイ政府に捕らえられていた今田与作という青年が海に飛び込み「浪速」に逃げ込んだ。 もちろん、ハワイ政府は何回も今田の弓き渡しを要求してきたが、拒否し続けた。 ハワイ在勤のわが国の総領事の要請にも応じなかった。 だが、ついに軍の命令がきた。平八郎は「軍人として服従せねばならぬ。彼も同じ日本人。ハワイ政府に渡すのではない。君たちに引き渡すのである」 と日本領事館の職員に語り、今田を引き渡した。
原本記載写真
明治24年(1891)、軍艦「浪速(なにわ)」の艦長時代、東郷平八郎は、ハワイに異変が起こったために急行、多くの在留邦人の保護に努めた。 その時のエピソー ドは長く語り草に。写真は、そのころの平八郎(海軍大佐)

東郷平八郎 B 『英国の商船を撃沈』
原文

明治二十七年(1894)4月、平八郎は呉(くれ)鎮守府海兵団長になったがニカ月後、再び「浪速」艦長に。 ちょうど朝鮮半島をめぐり、わが国と清国(当時の中国)が衝突。日清戦争の火ぶたが切られた。 当時の両国海軍力を比較すると、軍艦(水雷艇を除く)の合計が、わが国二十隻、清国八十二隻。 トン数の合計は水雷艇を含めて、わが国五万九千d、清国八万五千d。 清国にはドイツ製の「足遠」をはじめ「鎮遠」など新鋭艦があり、舷側(げんそ−艦の横っ腹)に装甲を張つた軍艦 が何隻も。わが国の ”装甲艦” は古いイギリス製の「扶桑」(ふそう)一隻だけ。 しかも、七千d級の「定遠」に比べ「扶桑」は三千七百d。 開戦とともに連合艦隊は、佐世保を出港、朝鮮半島の近海へ。平八郎が指揮する「浪速」は、イギリス商船旗を掲げた 船と遭遇した。停船させて、調べたところ、清国が貸り上げたイギリス商船で、 船名は「高陞(こうしょう)号」。清国兵千百人を乗せていた。 その清国兵は、イギリス人の船長らを 脅迫して、清国の港へ引き返すことを強要していた。 平八郎は、船長に対して「直チニソノ船ヲ見捨テヨ」と発信。 船長からは短艇(ボート)をよこしてほしい、との要求だ。だが、船内の状況から推測して無理、 と判断した平八郎は「短艇、送りガタシ」と答えた。その間、約四時間。 「浪速」のマストに再度「ソノ船ヲ見捨テヨ」の信号旗が揚がり、次いで、危険を示すB旗(赤旗)がひるがえった。 しばらくして、平八郎は沈黙を破つた。 「撃沈します!」。もちろん、イギリス人の船長はじめ、多くの清国兵は「浪速」に救助された。 この「高陞号」事件は、国際法違反として話題となった。特に、日英両国内は騒然となつた。 その中にあって、イギリスの著名な国際法学者、オックスフォード大学のホーランド博士は、 「浪速」艦長の行動の正当性を評価。タイムス紙上の博士のー文が、イギリス国内を鎮めた。
原本記載写真
外交史上でも話題となる「高陸(こうしょう)号」事件をめぐり、国際法違反だと日英両国内で議論、 騒然。だが、軍艦「浪速(なにわ)」の処置の正当性が評価された。写真は、東郷平八郎が艦長を務めた「浪速」

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