石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


ペリー上陸記念碑 @  『再訪の士官が演説』
原文

アメリカの退役海軍少将ペアズリーが久里浜を訪れたのは、明治三十三年(1900)である。 彼は嘉永六年(1853)のぺりー来航の時、最年少の士官で黒船のー隻プリマス号に乗り組んでいた。 ペアズリーは四十七年ぶりに久里浜海岸に立ち、当時をなつかしむとともに、 アメリカ人の祖先が、初めて米大陸へ上陸した地プリマスロックに等しい久里浜に、足跡の証(あかし)がないことを嘆いた。 同年十一月六日、横浜での米友協会招待会の席上、次のような演説をした。 「私は今回、横浜に着くや、すぐ久里浜へ出掛けました。途中、切り通しの所で記念碑を見かけました。 その切り通しの関さくに尽くした人の功績を記した碑とのことでした。 私は、切り通しの開さくでさえ記念碑がある。さぞかし久里浜には立派な碑があるだろうと思いました。 だが、行ってみましたら、何もありませんでした。  もとより私は、あえてぺりーを日本開国の功労者に仕立てるつもりはありません。 ペリーは、ただ開国の好機に日本へ来たに過ぎないのです。すでにぺりー提督なく、 当時、一行中の士官五十一人のうち存命者は四人。だが私以外は老衰で、来日は無理であります。」   この演説は、大きな感動を与えた。 鳴りやまぬ満場の拍手の中から、久里浜記念碑建設委員会が誕生した。 委員は、米友協会長男爵・金子堅太郎ら十人。 委員会では、次のことを決議した。@記念碑建設の地点は久里浜 A寄付金の締め切りは明治三十四年二月二十八日 B落成式は上陸日の七月十四日 C碑は自然石とする。
原本記載写真
4隻の黒船を率いて、来航したペリーは、久里浜海岸に第 1歩を踏んだ。 嘉永6年(1853)7月14日、大統領の親書を幕府側に手渡すためだった。 写真は、尾形月山がぺりー上陸の模様を描いたもの。 貴重な資料である

ペリー上陸記念碑 A   『明治天皇も下賜金』
原文

「回顧すれば今を去る四十八年前、北米合衆国水師提督ペリー氏は、我が帝国 と修交貿易を締結するの使命を奉じて来航し、嘉永六年七月八日我が帝国に到着し 同月十四日、相模国三浦都久里浜に上陸し茲(ここ)に幕史と会見を重ね竟(つい) に其(その)使命を畢(お)へて帰国したり。 是(こ)れ実に我が帝国と北米台衆国と、国際上の通交の啓(ひら)きし端緒にして・・・(後略)」。   これは、明治三十四年(1901)一月十五日、米友好協会長金子堅太郎によるぺリー上陸記念碑設立の趣意書の書き出しである。 国内はもちろんアメリカでは、大統領ルーズベルトをはじめ広く配布された。 その結果、六カ月間でニ万余円も集まった。 金子は宮中へ参内、明治天皇から金千円を下賜された。 「米友協会略誌」(昭和十年刊)には「吾人をして毫(ごう)も後顧の憂いもなく専心、記念碑設立の準備に着手するを得せしめ、 ついにこの空前の壮挙に遺憾なき完成を見るに至りしもの本会が今なお大方、同感の士に感謝して止まざる所なり」と書かれている。 同じ年、七月六日に記念碑は完成した。   同じ年、七月六日に記念碑は完成した。 ・ 碑は、仙台産の花崗(かこう)岩。高さ四・五b、幅二・四b、厚さ三十九aで、 重さは十d余。また、碑の台石は、相州産の根府(ねぶ)川石でコンクリートで固めた。 高さ五・四b、幅三・三b、厚さ一・五b、重さは約九d。工費は五千円だった。 碑の表面には「北米合衆国水師提督伯理(ペリー)上陸記念碑」の十六文字、 横に「大勲位侯爵伊藤博文書」の十文字を刻んだ。碑の裏面は「嘉永六年六月九日上陸、明治三十四年七月十四日建之」 のニ十三文字をニ行に。別の英文で「この記念碑はー八五三年七月十四日、アメリカ合衆国の使節ペリー提督が初めてここに上陸したことを記念するものである」 「一九〇一年七月十四日、米友協会」とある。
原本記載写真
明治34年(1901) 1 月。ペリー上陸記念碑設立の趣意書は、日本国内はもちろん、アメリカにも広く配布された。 日米両国民の多くの賛同を得たという。 写真は、その記念碑=横須賀市久里浜7丁目=高さ4,5bある

ペリー上陸記念碑 B  『ペリーの孫も参列』
原文

待望の除幕式。明治三十四年(1901)七月十四日である。 夜来の雨の中、参列した人は翌十五日付の「時事新報」によると、桂首相はじめ児玉陸軍、山本海軍、曽祢大蔵、平田農商務、清浦司法の各大臣。 それに陸軍の大山元師、海軍の西郷元帥、個人としては榎本武楊、徳川家達ら、来資は約一千人とある。  アメリカからは、国賓としてアジア艦隊司令長官代理の口ジャース少将。この人は、くしくもぺりーの孫に当たる。 この日、久里浜の沖には日米両国軍艦も。アメリカ側は旗艦「ニューヨーク」(一万七千d)、砲艦「ニューオルレアン」と 「ヨークタン」(ともに三千三百d)の三隻だった。  一方日本側は旧式艦、新鋭艦合わせて四隻。旧式艦は「天城」(五百d)、明治初年に横須賀で建造。そ れに「金剛」「扶桑」(ともにニ千二百d)で十年の建造。 新鋭艦としては「初瀬」(一万五千d)。 そのニ年前にイギリスで建造されたばかりである。  碑の建設をめぐってのエピソードをニつ三つ。 「碑文は初め、ある書家に依頼した。が、出来上がりが平凡すぎたので思案の末、伊藤博文にー筆、願った。 「碑文を彫刻した石工は、横浜の横溝豊吉。碑の字画は鮮明、伊藤の筆勢をよく表し、特に、裏面の英文は除幕式に参列 したアメリカ人も賞讃した、という。
碑の石材は初めに取り寄せたのが、小さ過ぎた。そこで急いで再注文。 小さいほうは、横浜・伊勢山の日露戦争戦死者の忠魂碑に。 「碑が完成した時、除幕式に国賓としてみえるロジャース少将を、米友協会の幹事が横浜港の艦上に訪ねた。 「見栄えのしない碑で申し訳ない」といったら、小将いわく。「記念碑は日米両国の友情のシンボルに過ぎない。 今後、両国の友情で温かいものにしよう。だから、碑そのものはー片の石の塊でいい」。
原本記載写真
多くの来賓や地元の人たちを迎えて明治34年(1901) 7 月14日、ペリー上睦記念碑の除幕式が行われた。 写真は、その碑の裏に刻まれたま英文。当時としてはすばらしい英文だ、と参列したアメリカ人に称賛されたという


ペリー上陸記念碑 C  『 ”敵性”のやり玉に』
原文

大正十一年(1922)七月にアメリカの海軍長官ランヒーら ー行が来日。 彼は、ペリー上陸記念碑を訪ね三時間も過ごした。五年前、元水兵ハーデーが手植えしたオレゴン州産の小松が、 だいぶ荒れているのを見て、新たに小松を植えた。 だが、この日米親善も昭和十六年十二月八日の太平洋戦争開戦でー瞬に消え去った。 高橋恭一著「浦賀奉行」(昭和五十一年刊)のうちの「開国後日物語」によると、 敗戦の色濃くなると、特にアメリカに関係するものは、すべて敵性のものとして憎んだ。 まず、その犠牲のやり玉にあげられたのが、ペリー上陸記念碑だ。 そこで翼賛(よくさん)壮年団を中心に、昭和十九年の十二月八日を期して、碑を粉砕した上、 これを道路に敷こうという運動を起こすことになった。 地元の海軍の了解を得ようとしたが、鎮守府司令長官の回答は「記念碑には罪がない。大国民としては大人気ない。 まあ、喪(も)章でもつけたら」。 記念碑は、昭和十年以後、米友協会から神奈川県庁内の伯理(ぺりー)記念碑保存会に引き継がれていて、 その会長が県知事。しかし即答は得られなかった。 十九年十二月七日の神奈川新聞は、「ペリー上陸記念碑撃砕計画一時延期 軍港翼壮声明書発表」という見出しで、 その間の事情を報じている。 碑を倒したあとは、徳冨蘇峰(そほう)に依頼して「護国精神振起之碑」を計画した。 翌二十年二月、ついに県知事が許可。二月四日の朝日新聞には、「ぺリー記念碑撤去 蘇峰翁も大賛成 知事の断くだる 代りに護国精神振起の碑」という見出しで、報じられた。 皮肉にも、その半年後のハ月十五日に終戦。あわただしく十一月には復元した。 占領軍のマッカーサー司令部に対しては「一切、私の責任だ」と、藤原幸夫県知事は答えた、という。
原本記載写真
昭和20年になると横須賀はアメリカ艦載機による空襲が激化。「敵の提督の碑を建てておくことはない」として、 とうとうぺリー上陸記念碑は撤去された。写真は、終戦直後すぐさま復旧。その工事中の様子を撮影したもの
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参考文献・資料/リンク
横須賀市市立図書館
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