石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


龍馬の妻お龍さん@  『流浪の果てに再婚』
原文

明治維新の立役者、坂本龍馬の妻お龍(りょう)の墓は幕末・維新ゆかりの地、 久里浜や浦賀に近い大津の信楽(しんぎょう)寺にある。 墓は門前の石段下、右側のイチョウの木のわきに。 正面に「贈正四位坂本龍馬之妻竜子之墓」、裏面には「永代寄附 明治三九年一月十五日歿 享年六拾有六謚昭龍院閑月珠光大姉 大正三年八月十六日 実妹中沢光枝建立」と刻まれている。 さらに、台石左側に、「賛助人西村松平(松兵衛) 鈴木魚龍(清治郎) 新原了雄」とあり、坂本家のききょう紋も。 お龍は嘉永三年(1850)六月六日、京都府下の町医者の長女として生まれた。 そして伏見の船宿、寺田屋の養女だつた慶応二年(1866)二月、龍馬と知り合い、 西郷隆盛の媒酌で結婚。しかし龍馬は、翌三年十一月十五日、京都の河原町通り薬師下ル「近江屋」で暗殺された。 したがってニ人の結婚生活は、わずかー年十カ月間である。 その後、お龍の流浪の生活が始まり、下関から長崎を経て龍馬の実家、土佐へ。 やがて京都、大阪、東京、神奈川と移った。西村松兵衛とは、神奈川宿で女中をしていて知り合い、再婚した。 明治八年(1875)七月、お龍は西村ツル(鶴)として入籍。 その時は、今の上町、当時の豊島村にいたが、松兵衛の倒産で、三十年ごろから深田(今の米が浜通)で長屋住まい。 晩年は、貧窮な生活だった。  明治三十七年に日露戦争が起こると、国を挙げてその成り行きを心配した。 葉山御用邸にご滞在中の照憲皇太后は、ある夜のこと、白装束の龍馬が夢まくらに立ち、皇太后に「ご安心なさるように」 と申し上げて姿を消した、という。 皇太后大夫(だゆう)の香川敬三が、皇太后のおぼしめしを持ってお龍を見舞った、という話が残っている。
原本記載写真
お龍さんが坂本龍馬と連れ添ったのは、わずか 1 年10ヵ月である。 写真は、墓のある真楽(ぎょう)寺=横須賀市大津町3丁目=。 お龍さんは明治39年(1906)1月15日に亡くなった

龍馬の妻お龍さん A  『絶えない花と香煙』
原文

「坂本龍馬未亡人危篤」という見出しで、お龍の病状が明治三十九年(1906)一月十四日の「万朝報」に報じられた。 その三日後の十七日、同じ「万朝報」は「坂本龍馬未亡人の死去」として、次のように報じている。 「横須賀に住居せる坂本龍馬未亡人、西村鶴の病状危篤なる由は既に報ぜし処なるが、昨朝六時遂に死亡し来るニ十日 午後一時同地にて葬儀を執行する」。 お龍の晩年、世話になつた鈴木清治郎と、信楽寺(しんぎょうじ)の新原了雄住職の力添えで、お龍は、同寺に埋葬された。 三年前、劇団「前進座」が日本近代史の大波にほんろうされた彼女のー生を描く 「海を見る女・おりょう物語」を公演。 その作者、演出家の津上忠さんは、こう語っておられた。 「いわばお龍の周辺にいた人たちと時代の移り変わりとを関連づけて描かないと、 本当のお龍の姿が浮かび上がってこない。(中略)そして、お龍が横須賀に来てから、 この地は海軍の軍港として急速に発展したことと、彼女の死が日露戦争の直後であったことの関連を、 私としては改めて考え直してみたのです」。 さて、お龍をめぐる話題を三つ。  享年=六十六歳。だとすると嘉永三年生まれはおかしい。生年が正しければ六十六歳は疑問。 生年と没年が戸籍通りなら五十六歳。  晩年=明治三十二年、お龍は土陽新聞の取材に応じた時、「私は三日でもいい。京都へ行つて墓参りがしたいのです。 龍馬が死んだのは昨日のように思いますが、早や三十年になりました」と語っている。  一族=墓碑が建立された翌年、大正四年に夫の西村松兵衛は病死、お龍の実妹中沢光枝のー家は、 太平洋戦争中に品川で戦災死された、とか。 以後、お龍の墓は無縁墓となっているが、毎年一月十五日には「お龍忌」が、寺や土地の人たちによって営まれている。
原本記載写真
京都・寺田屋騒動でー命を失いかけた坂本龍馬の危急を救ったのが、妻のお龍さん。 その後は波欄(はらん)な人生を送った。 写真は、横須賀市大津町3丁目、信楽(ぎょう)寺前にあるお龍さんの墓。 大正3年(1914)に建立された

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