明治十三年(1880)三月に観音崎北門第一、第二砲台の建設が始められてから約十年で、
東京湾口のおもな要塞(さい)砲台は完成した。
下関海峡、紀淡海峡、対馬浅海湾の各要塞も整備されていった。
二十年九月の「海岸要地防備ノ位置選定ノ件」によって、新たに鳴門海峡、広島湾など十六カ所が、
要塞地に決まった。東京湾口の要塞砲台は全国的にみて、その先駆けの役割を演じた。
その間、三浦半島各地の要塞砲台を統轄する機関がニ十一月七月に、ようやく発足。
臨時東京湾守備隊司令官として陸軍少将牧野毅(こわし)が任命され、不入斗(いりやまず)の連隊内に腰を据えた。
日清戦争直後のニ十八年三月の勅命で「要塞司令部条例」が定められ、その翌ニ十九年五月に、新庁舎が中里に完成した。
今の上町二丁目にある国立横須賀病院の所。名称も東京湾要塞司令部と改めた。
以来、東京湾口の防衛を担当したが、太平洋戦争の末期、司令部は千葉県館山市に移転した。
話を戻そう。当初の臨時東京湾守備隊司令部の職員は、司令官を含め八人。
その内訳は司令官、参謀各一人、副官二人、書記四人だった。
司令部は初代の牧野から、太平洋戦争終了時の陸軍中将大場四平まで四十八代続いた。
こうして長い間の要塞地帯は、戦前の市民生活に大きな影響を与えた。
出版物や写真などは、同司令部や横須賀鎮守府の許可を得なければならなかった。
一例をあげると、戦前の小学生用郷土読本「我等の横須賀」(昭和十六年刊)の巻末には、「東京湾要塞司令部昭和十六年地乙
第八四号許可済、横鎮第六一号ノ五八ノ二横須賀鎮守府許可済」とある。
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