石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


海軍水雷学校  『 明治に英教官招き 』
原文

明治十二年(1879)二月、イギリス海軍掌砲長ゼーバーを教官として、海軍士官十人が水雷術の訓練を始めた。 わが国初の水雷術練習所の発足である。 この練習が、無線電信術をも含め海軍水雷学校となつたのは、日露戦争直後の明治四十年だった。 場所は、田浦港に面したー角。そこは今、関東自動車工業や海上自衛隊第二術科学校が建つ。 その術科学校構内の正門近くには「上等兵曹、勲七等上崎(こうさき)辰次郎之碑」。  上崎は、青森県出身で旧会津藩士。万延元年(1860)の生まれ。 明治十六年(1883)に、水雷第三期生となり刻苦精励、日清戦争では、六号水雷艇に乗り組み出征。 二十八年二月、威海衛(いかいえい)の港内に侵入したものの発射管が氷結、敵艦を目前にしながら、 魚雷が撃てなかった。 数日後、責任を感じた彼は自ら命を断つた。艇長は海軍大尉鈴木貫太郎。 あの太平洋戦争終戦時に首相となった人である。 艇長鈴木以下三十七人が発起人となり、二十九年八月に、碑を市内の竜本寺に建立したが、 昭和三年十月、下士官兵集会所田浦支所ができると、そのー角に移した。 今の横須賀キリスト教社会館のわきにあたる。 当時の水雷学校長、八角(やすみ)三郎海軍少将によって移転式が行われた。 それから四十年後、昭和四十三年に、碑は上崎兵曹が、かつて学んだ現在地に移された。 除幕式は、同年五月十九日に行われた。 ちなみに、この術科学校には、旧海軍機関術参考資料室がある。 室内では、単なる軍隊の資料だけではなく、学問や技術に挑んだ筆跡に、目を奪われる。
原本記載写真
海軍水雷学校の跡地には戦後、関東自動車工業kkや、海上自衛隊第二術科学校が建つ。 写真は、術科学校の校庭に残る上崎(こうざき)辰次郎兵曹の碑。 長く水雷術将兵の鑑(かがみ)として崇拝された

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