石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


消防組 @ 『全国の模範と称賛』
原文

明治初年までの横須賀は、海辺谷戸(やと)に家が点在していた。 そのため、火災が起きても、よそに広がることは少かった だが、部蕗の形が整っていた逸見、不入斗(いりやまず)、中里、深田の各村では、 江戸の火消し並みの竜吐(りゆうど)水という手押しポンプを備えていた。 刺子(さしこ)のはんてんを着て、提灯(ちょうちん)を腰に、刺又(さすまた)や 突き棒を打ち振って、消火に努めたそうだ。 やがて明治二十七年(1894)、勅令に基づく県令第二十号により、横須賀消防組が発足。 四十年の市制施行後は、豊島町の消防組も合併した。 消防組の組織は、今の団長に当たる組頭(がしら)一人、小頭(こがしら)十一人、消防手三百九十九人。 当時の市内を十の部に分け、それぞれ小頭が部を指揮した。 同時に「横須賀消防組手当被服支給規定」も制定された。それによると、一カ月の手当は組頭五円、小頭二円、消防手二十五銭。 出動手当はー時間につきハ銭。 服装は組頭が洋服と帽子、消防手が頭巾(ずさん)、手甲であった。 なお、初代組頭は鈴木忠兵衛。 四十二年五月、今の下町一帯が大火災となり、約五百戸が燃えた。 その結果、消火器具が改善され、手押しポンプは蒸気ポンプやガソリンポンプに。 曳(ひ)き車も、オートバイや自動車に変わっていった。 大正十二年(1923)六月、第四代の組織に小暮藤三郎が就任。 横須賀消防組は、全国の模範になるまでに充実した。
原本記載写真
明治27年(1894)に横須賀消防組が発足した。組頭(がしら)1人、小頭11人、消防手399人の顔ぶれだった。 写真は、消火用に作られた木製の竜吐水(りゆうどすい)。簡便な用具で初期消火に成果をあげた

消防組 A  『明治にニ度の大火』
原文

明治の後半に横須賀でニ回、大火災があつた。 明治二十二年(1889)二月一日に湊(みなと)町、汐入町(今の汐入町一、二丁目)で全焼三百六十二戸。 次は、四十二年五月二十三日で大滝町、若松町の全焼約五百戸。 消防組織は急速に整備されたが、そのー例は、汐入町四丁目の子(ね)の神社本殿に奉納された「よ四消防組連名」 にみられる。「よ四」とは横須賀第四部のことで、末尾に、「明治三十九年四月吉日、彫刻師三浦京三郎」とある。 この「連名」は上、下二段に彫られている。 上段は、当時の汐入界わいの名士三十六人の氏名。 部会委員、氏子(うじこ)総代など役職別に。 下段は、消防組四十八人で次の通り。 組頭=柴崎彦太郎 小頭=金子権次郎 小頭副=清水熊太郎 世話役=伊藤留吉、山本千代松、山本道貴、前田辰五郎、安藤文蔵、金子良助 筒先=大木三代蔵、新倉亀吉、長谷川繁治郎、佐藤清吉。 旗=岸福松、神田吉太郎。 機械=柳沢仙吉、大沢亀吉、村松島太郎、金子与七 纏(まとい)=山本玉吉、金杉丈五郎、石井熊次郎、金子与七。 階子(はしご)=鈴木亀吉、谷沢留吉、浅野健太郎、斉藤喜代蔵、松本喜八、小島藤吉。 刺又(さしまた)=蒔田兼吉、金子助三郎、安藤角蔵、青木房吉。 斧(おの)=鈴木兼吉、三富清吉、塩田七三郎、田宮市五郎。 先鳶(さきとび)=工藤仙吉、根本徳太郎、井上丑五郎、永縄惣太郎、高田歌郎、中島伊之助、堀田辰吉、飯島千代助、 今井音吉、川島作蔵、村上友次郎。   なお、小頭の金子権次郎さんが、明治四十三年五月に奉納した刺又も、現存している。
原本記載写真
明治・大正のころの消防組織は、大火のたびに整備されていったという。 写真は、横須賀市汐入町の子(ね)の神社に残る「よ四消防組連合」が刻まれた木製の額。 縦 1b、横 2bもある額に入っている

消防組B  『 ”一番手”が半鐘を』
原文

大正三年(1914)から十三年まで「よ四(横須賀第四部)消防組」で活躍された田丸定吉さんにお話をうかがった。 田丸さんは当時、汐入町に住んでいたが、昔なつかしい蒸気ホンブ時代の思い出。 「私が消防組に入ったのは大正三年でした。汐入の消防は第四部といって、今の汐入大通り町内会館、当時、汐入全体 の中心の自身番でした。えッ、いや自身番とは部会所、今の町内会館です。 消防組の人数は約二十五人で、蒸気ポンプを車につんで引っ張って行くのです。 私が入る二、三年前までは押しポンプでしたね。 消防に入るのは、自分の意思よりも、誘われたほうが多かったようです。 大津などでは酒一升さげて行き、塩カラなめなめ、仲間入りの誓いをしたそうです。 私なんか、汐留ののちの祭りばやしの師匠、金子亀太郎の親類が湊町でハ百屋 をしていて、そこのおやじさんが金子権次郎。消防の小頭(こがしら)でした。 この人に誘われたのが、十八歳の時でした。 火の見やぐらは、今の汐入交番の前にありました。佐倉屋というソバ屋の前でした。 火の見やぐらといえば、半鐘をたたくのは、だれでもいいんですよ。 警察から知らせがくるが、いちばん早く火事を知った人が登るんです。 火事の遠い近いによって、半鐘をたたく数が違う。遠い所はーつばん、 次は二つばん、三つばん、すりばんの順でした。 三つばんは、汐入でいうと下町、中里(今の上町)、坂本。 すりばんは、むろん地元の汐入。 一つばんでも、出動しました。安浦、山崎(今の三春町)、柏木田(今の鶴久保小学校前)、池上あたりが、一つばんでしたか」
原本記載写真
住宅の高層化によって、火の見やぐらの半鐘は、急激に減るー方である。 それでも健在で活躍しているものが、横須賀市内に数力所ある。 写真は、市内長浦町2ノ2、消防団6分団のもの。火の見やぐらは、戦前の町の風物詩でもあった

消防組C  『走りながら燃し木』
原文

大正時代に蒸気ポンプで活躍された田丸定吉さんのお話は続く。 「蒸気ポンプの釜(かま)には、燃し木が入れてある。 マッチさえつければ、火がつくように準備してありました。 いざ火事の時は、みんな待っていられない。数人集まれば出ちゃう。 引っ張って出ると、すぐ釜に火をつける。燃し木が燃えて蒸気をため、現場に着いてから、 その蒸気の勢いでホースの放水が始まるのです。 ですから、走りながら釜の中は、ボンボンと燃える。 火の粉が道路に落ちることがあると、車を押す者が足で消していかなければならない。 三つばんや、すりばんで、あまり火事場が近すぎると、時間が短いので、まだ蒸気がたまらず 「もうー回そこいらを回つてこい」という始末でした。 ある晩、火事があり、釜の掃除をせず解散したところ、翌朝また火事。 釜の掃除がしてないから、むろん、燃やし木も入れてない。 あわてましたね。現場に着いても蒸気はチョロチョ口。 小頭から大目玉をくらいました。 蒸気ポンプですか。車の前にさおが出ていて、二人がかじ棒に入る。 車の左右についたニ本の縄を数人が引っ張る。五、六人も集まれば出ちゃうというのは、 火事には必ずヤジ馬がつきものなんです。 半鐘がなるとすっ飛んでくる。ヤジ馬が引っ張ってくれるんですね。 出初め式は、一月の五日、松の内。会場は、今の体育館や総合グラウンドのある不入斗(いりやまず)の練兵場で、 わきの川を止めて水を使いました。 当時の汐入の消防は、よそに負けたことがなかったんですよ。 ですから、賞状の額がいっぱい。あの額は、みんなどこへ行っちゃったのかなあ。 思い切り、釜をたいて、腕を競ったんですよ…」
原本記載写真
蒸気ポンフプは時代の花形だった。地域の消防組によって、火事の時は威力を発揮した。 写真は、国産の馬引き蒸気ポンプ。大正から昭和にかけて愛用された。消防自動車の出現の多くは、 昭和に入ってからである

消防組D  『わずかな出勤手当』
原文

田丸さんのお話は続く。 「当時の消防は火口(ひぐち)取りと、筒先から放水をできるだけ高く上げるのが、名誉でした。 火口、つまり、火事場の風下を早く消してしまえばいいのだから。 そこの場所を取るのが、一番の苦労でした。 私が入る前に、下町の火事でポンプを焼いてしまったことがある。 逃げきれなくなって火をかぶった。というのは、やはり、風下にかかったんですね。 風上にはかからない。ほかの組に負けないように、いのー番に駆けつけて、風下でいい位置を占めたためです。 服装ですか。まず、今でいえば階級でしょうか。小頭(こがしら)の次が、副小頭、ついで世話番がいて、あとはヒラ。 世話番までが赤はんてん。小頭のはんてんは肩からそでまで赤のニ本線、副小頭と世話番はー本線でした。 つまり、赤線が役付きでした。 手当ねえ。火事で出動すると、ほんの少し出ました。手当は確かニ十銭でした。 風がない時は詰めないが、風が出ると四、五人が、すぐ飛び出せるように詰めます。 風が出ると警察から知らせがくる。すると小頭が、『だれそれ詰めてくれ』と呼び出す。 電話が少かったから、そのころは便いっ走りでしたね。 消防の中には、海軍工廠(しょう)勤めの人たちもいた。 夜の火事のあと始末のために、朝遅れて出勤してもよかつたんですよ。 市中の者はホースを洗ったりするので、その日は休みになっちゃう。 そのホース干しが大変でした。 つらいのは冬。すぐ洗わないと。洗つて干そうとする時には、凍って固くなり、 ミシミシと音がする。火の見やぐらへ綱をつけて持ち上げる。 夜中の火事では、火の見やぐら前の佐倉屋のソバ屋が、何時までも起きていてくれてね。 片付け後のカケソバ一杯のうまかったこと」
原本記載写真
消防隊の服装などは今では珍しい資料となった。写真は、出動する時は水にぬらして着た刺子(中央)と、 頭にかぶったタコずきん(右)を身につける。それに水指(すいし=手甲)、足袋(たび)、わらじ(いずれも左)なども

消防組E  『「火事は奥を消せ」』
原文

田丸定吉さん。大正三年から十三年まで、汐入町で蒸気ポンプで活躍。 現在は平作町二丁目にお住まい。お話は、そろそろ結びに近い 。 「私は、大正十三年に消防組をやめました。町の人たちが消防士になったのは、何年後でしたか。 消防の詰め所は自身番から、今の汐入駅前、そして今の汐入南郵便局隣の老人クラブの建物へと移ったのです。 消防が、私どものような私設から、公設になりました。 そのころ近代的な消防自動車になったのですが、ある火事の現場で、筒先を持った消防士にー席ぶったのです。 そしたら、『お前ら生意気なことをいうな』つて、えらそうにいうから私は、こういったんです。 『お前ら、生意気なことをいうけれども、火を消すことを知らねえんだ! そういう消し方をしちゃいけないんだ。 火事というものは、目の前の火を消すな。 目の前を消しちゃいけない。お前ら、奥を消すんだ。目の前はちょうちんだ。 前を消してしまうと、昼間はいいけれども、夜は、真つ暗になってしまう。 見えなくなる。前を消すな、奥を消せ』つてね。 「まあ、えらそうなことをいうけれども、冬なんか前が燃えてれぼ暖かい。たき火みたいなもんですよ。 それはともかく、前はいつでも消せますからね。えッ、ああ、はんてんの背中の字ですか。 ヨの字が染めてありました。 横須賀のかしら文字ですね。 大正三年の消防組の名札は、消防小屋にありました。小屋は、汐入交番前の古傷(こぼ)時計店裏のがけ下にあったのですが」。  田丸さんのお話は尽きない。特に「お前ら、奥を消すんだ。目の前は、ちょうちんだ」のくだりは、目をうるませて語られた。 こういう人こそ、『ふるさと横須賀』を育ててくれたのだ、という思いに打たれた。
原本記載写真
大正時代に消防隊で活躍された田丸さんのお話しは尽きない。 特に「お前ら、奥を消すんだ。目の前は、ちょうちんだ」のくだりは、目をうるませて言語られた。 写真は、戦前の手押しポンプ(昭和6年10月製造)
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参考文献・資料/リンク
横須賀市市立図書館
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