慶長五年(1600)四月、オランダ船リーフデ号が大分県臼杵(うすき)湾に流れ着いた。
その船に、イギリス人のウィリアム・アダムスや、オランダ人のヤン・ヨーステンがいた。
ともに江戸幕府の外交顧問となつた。
当時、水先案内人を「按針」(あんじん)と呼んだので、アダムスの日本名を三浦按針と称した。
彼の領地は逸見村、江戸日本橋には屋敷も。
ちなみに、ヨーステンの屋敷跡一帯が今、東京駅のー角、八重洲(やえす)である。
アダムスは、元和六年(1620)に、長崎県平戸で五十六歳で亡くなった。
墓は、平戸港を見下ろす丘にある。
塚山公園にある按針塚は、供養塔である、ともいう。
明治五年(1872)に横浜の貿易商ジェームス・ウォルタースが逸見の浄土寺へ。
按針塚の修理に乗り出したところ、地元の安西善六が共鳴。
その後、鈴木福松が主となってニ十一年、三浦郡長を動かし、日英両国がそれぞれニ百五十円を負担した。
三十五年には、時の県知事やイギリス大使の賛同を得て、大改修した。
四十年六月に、「ウィリアム夫妻境墓在於塚山絶頂」の碑を建て、このー帯を塚山公園と命名。
塔は、宝函(ほうきょう)印塔。向かって石がアダムス、左が日本人の妻のもので、毎年四月中ごろ、
内外の高官を招いて按針祭が盛大に催される。
国指定の史跡で今、地元西逸見町三丁目の佐藤静雄さんと梅田吉太郎さんが、おもに直接、見守ってくださる。
なお、横須賀市は、アダムスの故郷ジリンガム市と「友好都市」を結んでいる。
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