市町村制がしかれたのは明治二十二年(1889)四月。
この時、横須賀町は逸見町を編入させて、正式に横須賀町となつた。
初代の町長には鈴木忠兵衛、助役には江頭正五郎が就任した。
その後、江頭は、二十四年から十二年間、二代目の町長を務め、横須賀の町づくりに尽くした。
彼は在任中、豊島村の深田と中里、それに、浦郷村の長浦を横須賀町に編入させ、
人口三万五千人以上の「横須賀市」を目指し、市制施行委員会を結成。
豊島、浦郷両村と併台問題を交渉したが、実現をみなかった。
しかし、この動きが、三十六年に町制をしいた豊島町との合併のきっかけとなり、
さらには、四十年二月十五日の市制施行をもたらした、といえよう。
江頭は、嘉永五年(1852)二月、久留米(くるめ)藩の江戸屋敷で生まれた。
明治八年(1875)今の汐入小学校の前身、横須賀学校の教員となり、やがて校長として、
学校経営や教育の普及に務めた。
その手腕が買われ、やがて町の助役や町長に。彼が町長を勇退した時、町民は銀盃と養老金を贈り、その労をねぎらった。
大正二年(1913)十二月、六十三歳で亡くなった。
墓は、汐入町の長源寺にある。六年、彼の頌徳(しょうとく)の碑が、緑ケ丘にある諏訪公園に建てられた。
碑の発起人は、鈴木忠兵衛はじめ栗田万五郎、小泉又次郎らで、碑文は、当時の横須賀高等女学校(今の県立横須賀大津高校)の校長、北村包直の筆による。
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