石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


馬頭観音@  『世の悪事平らげる』
原文

峠や山道の難所、村の追分(道が左右に分かれている所)、屋敷の片すみなどで風雪に耐えている石塔のひとつが、馬頭観音である。 「世の悪事を平らげるように馬は草をむさぼる」 「天馬空(くう)を行くごとく雑事を蹴(け)散らす」ところから始まつた信仰である、という。 元来、ウマという日本語はよいことをさす。おいしいことをウマイといい、 「ウマずたゆまず」や、ウマシ国、ウマ酒という言葉も。 ことわざの中に「馬に乗っても口車にのるな」とか、「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」ともある。 千里を走る神馬は、万葉集では「竜の馬」と表現され、ギリシャ神話ではベガサス、中国黄帝の天馬の皮で作った太鼓は千里も響いた、 という世界共通の天馬思想がある。   馬頭観音は梵(ぼん)名をハヤグリーバァ。 これは「馬の頭を持つ者」という意味。観音の頭に刻まれた馬からの連想で、馬の供養や無病息災の祈願がこめられている。 やがて観音の像よりも、「馬頭観音」の文字塔が多くなり、また、特定の馬の供養や、墓石の意味を持つようにもなった。 馬以外の動物にまつわるものでもある。「馬だけじゃないよ」といった、庶民の気持ちの現れだろうか。 大楠子安の牛頭観音、武山の太田和保育園前の鶏霊塔や久里浜、最光寺の魚貝供養塔、 ドブ板通り裏には猫供養塔、そして、米海軍基地内の鳥獣供養塔などがある。 ついでにもうーつ。三浦市諸磯(もろいそ)の光心寺には、豚頭観音がある。
原本記載写真
「世の悪事を平らげるように馬は草をむさぼる」など、馬は信仰の対象にもなった。 写真は、防衛大学校への坂道の左側にある馬頭観音。清水もわき、昔の面影が残る。 毎年初もうでには人出でにぎわう

馬頭観音 A 『市内に100基以上も』
原文

横須賀市内には今、百基以上の馬頭観音がある。 たとえば、安針塚頂上から葉山町木古庭(きこば)へ降りる途中、坂本の坂、久里浜の御滝神社、馬堀の矢の津坂から浦賀へ向かう左側など。 馬堀といえば、小原台へ登る坂の左側の中腹にも。 昔、上総(かずさ=千葉県)の国の荒れ馬が東京湾を泳いで渡って来た。 ここの岩を蹄(ひすめ)で掘り、わき水を飲むと、たちまち駿馬(しゆんめ)に。 この話を伝え聞いた三浦大介義明の二男、荒次郎義燈(よしずみ)は、源頼朝にこの馬を献上、「池月」と名づけた。 寿永二年(1183)宇治川の合戦の時、頼朝は佐々木四郎高綱に「池月」を贈つたところ、梶原景季(かげすえ)の「磨墨(するすみ)」と先陣争いをした話は、有名だ。 さて、わき水は「蹄の井戸」と呼び、今も人気の的。この水を飲むと、百日ぜきや夜泣きに効く、という。 地元の馬堀町三、四丁目町内会長の木川竹次郎さんは、「地元の人より東京、横浜からみえる方が、由来をよくご存知なんですよ。 役員が総出で、大みそかは電灯を三十カ所つけ、かがり火で初もうでの皆さんをお迎えします。 今年はニ百十五人みえました。 二十年近くも続く、心と心の触れ合いの場だと思っています」とおっしゃる。 一方、京急汐入駅から坂本町に向かう通称、坂本の坂の途中にある馬頭観音は この坂を造る時、安浦まで土を運んだ馬や、この坂を上り下りする馬をねぎらうために、馬方が建てた。 馬にわき水を飲ませて休んだ所でもあった。昭和九年に横須賀運送組合が整備した。
原本記載写真
京急汐入駅から横須賀市坂本町に向かう、坂本の坂の途中に馬頭観音がある。 昭和9年に、横須賀運送組合が整備した、といわれる。 写真は、その馬頭観音。近所のお年寄りが花をそなえる

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