京急馬堀海岸駅から観音崎へ向かって、旧道を十分ほど歩くと、防衛大学校が建つ小原台の登り口。
その手前、右の奥に馬堀小・中学校、市博物館付属自然教育園がある。
この緑の山ふところが、かつて重砲兵幹部が巣立った陸軍重砲兵学校の跡である。
逸見村に横須賀海兵団ができたため、浦賀の海軍屯営が明治二十二年(1889)に廃止された。
同年、その庁舎を使って陸軍要塞(さい)幹部練習所が発足した。
それがニ十九年、陸軍要塞砲兵射撃条例によつて、陸軍要塞砲兵射撃学校と名を改め、仮校舎が今の大津運動公園に建てられた。
これが、重砲兵学校の始まりである。
三十年五月に本格的な校舎が、馬堀に完成。軍は腰を据えて幹部養成に励んだ。
校名は、四十年に陸軍重砲兵射撃学校、さらに、大正十一年(1922)には、陸軍重砲兵学校と改めた。
ところで、この重砲兵学校が昭和十四年に創立五十周年を迎えた時、部外秘として「陸軍重砲兵学校回顧史」を刊行した。
それによると、その時代なりの科学技術の粋に挑む、つわものどもの気迫が感じ取れる。
戦後、海外からの復員兵のー時収容所となった。数多くの人たちが、夢にまで見た祖国での第一夜を、ここで過ごした。
二、三日の帰国手続きや休養のあと、故郷を目指して、横須賀駅まで歩き出した。
そのなかには今なお、ここを訪ねて思いを新たにする人もいる。
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