石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


横須賀線 @  『軍部の要請で敷設』
原文

安政元年(1854)にぺりーが再び来航した時、汽車の模型をもたらした。 それから十八年後の明治五年(1872)、わが国初の鉄道が新橋〜横浜間に開通した。 単線でー日九往復、所要時間は五十八分、時速は約二十九`で、今のバイクより遅かったが、 歩けば十時間近くかかった所である。 新橋〜横浜間の運賃はー等=一円十二銭五厘、二等=七十五銭、三等=三十七銭。 そのころ米の値段はー・四`(一升)五銭、とか。 横須賀線は軍事上の必要から敷設されることになつた。当時、海軍は鎮守府をはじめ施設を拡大した。 一方の陸軍では観音崎や第一海堡(ほ)など東京湾要塞(さい)を着々と整備中であった。 明治十九年六月、陸軍大臣大山巌(いわお)、海軍大臣西郷従道(つぐみち)は 総理大臣伊藤博文へ、横須賀線の開設を求めた。 「いざという時、海上交通だけでは無理。山、また山で物資や軍隊が輸送できるか」。 この要求に、政府は重い腰を上げた。 建設中の東海道線の予算から四十万円を流用、戸塚停車場の西方、大船村から鎌倉、田浦、横須賀へと最短距離を選ん だ。 そのために、鎌倉では鶴岡八幡宮の参道「段かずら」を削り、また、今の北鎌倉駅付近では、円覚寺の境内を分断してしまった。  こうして、工事開始のニ年後、二十二年六月十二日に横須賀線は開通したが、大船〜横須賀間の駅は鎌倉と逗子の二駅だけだった。 きっかけは、どうあれ、汽車の吐き出す黒煙に、横須賀の人々は感動したのである。
原本記載写真
戦前、横須賀海兵団に入団する若者は、みんな横須賀駅に降り立った。 写真は、昔の面影を残す同駅。明治22年(1889) 6 月に開業、全国でも珍しい階段のない駅である、といわれている

横須賀線 A 『海兵団と駅が同居』
原文

「汽車より逗子をながめつつ
 早や横須賀に着きにけり
見よやドックに集まりし
わが軍艦の壮大さ」
これは、明治三十三年(1900)に作られた鉄道唱歌の第十章である。 最初の計画では、横須賀線の終点は観音崎であった。だが、狭い市街地への鉄道敷設は不可能なため、 今の横須賀駅止まりとした。ここも平地が乏しく、当時の逸見の海兵団構内に「停車場」が設けられた。 「煙モ見エズ雲モナク、波モ起コラズ 風立タズ…」と、軍歌演習を突っ切るように、汽車は発着した。 海兵団は、大正六年(1917)に、今の基地内の楠ケ浦に移り、跡地は鉄道用地となった。 横須賀駅のわきには転車台があり、汽車の向きを変えた。 また、駅員の鳴らす鈴の音で駅の構内へ。   開通以来の単線が、大正五年に復線となり、十四年に汽車と機関車を併用、翌十五年にー台の機関車で、 客車を引き始めた。 なお、田浦駅が明治三十七年(1904)開設されると、横須賀〜浦郷間は、十三峠を越えなくてもすむようになった。 ちなみに、「第一回横須賀市統計書」で横須賀駅の利用状況をみると。 四十年の乗客は六十七万四千人、降客は七十六万六千人。 この乗客のー日平均は千八百四十三人で内訳はー等=三人、二等=百六十三人、三等=千六百七十七人。 その後、利用者は増えて大正二年(1913)の乗客は百十三万九千人、一日平均は三千百二十一人となった。
原本記載写真
最初の計画では、横須賀線の終点は観音崎だった。それには海岸線を埋め立てねばならず・・・。 断念した。写真は、明治37年(1904)に開業した田浦駅のホ一ム。 横須賀から浦郷の間は十三峠を越えなくてもすむようになった。

横須賀線B  『近代文学にも登場』
原文

「ある曇った冬の日暮である。私は横須賀線上りニ等車の隅に腰を下して、 ぼんやり発車の笛を待つていた。とうに電灯のついた客車の中には、珍しく私のほかには、一人も乗客はいなかった」。 芥川龍之介の「密柏(みかん)」(大正八年刊)の書き出しだが、このように、横須賀線は、近代文学の作品にかなり登場する。 しかし、昭和の年代になると、戦雲あわただしくなり、横須賀線の周辺も軍国色を帯びてきた。 沿線には軍港が見えないように、コンクリートの塀が軍によって築かれた。 そのー部は今も残っている。 昭和六年の満州事変以後、三浦半島全体が軍事基地化の方向に進んでいった。 そこで、久里浜までの鉄道の延長が決定し、全長二千八十九bの「横須賀トンネル」の工事が十六年八月に始まり、 突貫工事で、十九年四月に完成をみた。 このトンネルは全国でも珍しい凹(おう)型トンネルである。 横須賀駅側から入ると千分の三・五の下りこう配となり、汐入町五丁目、つまり京急汐入駅と 逸見駅の中間にある踏切と交差、ここが トンネル内でー番低く、平均潮位より一・五bの差しかない。 満潮時には海面とほぼ同じ高さ。地下水がたまりやすいので、地上に揚水ポンプ室がある。 この辺からこう配は千分の十五と上がり、衣笠駅側の金谷二丁目へ出る。 なお、終戦まで三浦高校わきに「相模金谷」という臨時停車場があり、池上宿舎の工廠勤務の工員を、 横須賀駅までピストン輸送した。 なにしろ戦時中のこと。この路線のレールは、御殿場線の片方をはずして便用した。 以来、あちらは単線のままである。
原本記載写真
戦時中、突貫工事で「横須賀トンネル」は完成した。 京浜急行と交又するために、全国でも珍しい凹(おう)型トンネルだ。 写真は、市内汐入町5丁目にある汐入ポンプ室。 トンネル内にたまる地下水を、汲み上げている

寄稿・補稿欄
皆様からの関連する記事・写真などの寄稿をお待ちいたしております。

参考文献・資料/リンク
横須賀市市立図書館
皆様からの声
ご意見、ご感想 お寄せ頂ければ幸いです。
ご意見・ご感想をお寄せ下さい


ご氏名 ペンネーム ハンドルネームなどは本文中にご記入下さい。 尚、本欄は掲示板ではございませんので即時自動的にページへ
反映される訳ではありませんのでご承知おき下さい。

メール:(携帯メールも可)