石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


夏島憲法 @  『明治21年 草案完成』
原文

「鉈切(なたぎり)の沖合百余間なる海中に夏島あり。気候温暖なるをもつてこの名あり。 長さ六町(一町=約百九b)、横四町、周囲およそ三十二町ばかり、高さニ百尺余、砲台の設あり。 伊藤博文公の憲法を起草したる所として知られる」。 これは「三浦郡浦郷村郷士誌」(明治四十四年刊)に書かれている。 さて、夏島の明治以後の歴史に目を向けてみよう。  伊藤博文がドイツから帰国したのは明治十六年(1883)。 各国の憲法を調査し終えた彼は、十九年五月から井上毅(こわし)、伊東巳代治(みよじ)、 金子堅太郎(けんたろう)とともに、憲法の草案にとりかかった。 伊藤がまとめ役で、担当は、井上が憲法と皇室典範、伊東が衆議院の議員法、 金子が衆議院選挙法と貴族院令であった。伊藤らは最初、今の横浜市金沢区の洲崎(すざき) 瀬戸橋ぎわの旅館東屋(あずまや)に泊まり込んだ。 この東屋は、江戸時代からへ店で、幕末のころ広重(ひろしげ)が宿をとり、 「広重武相名所旅絵日記」に海辺の景色を描いている。 ある夜、その東屋で草案を入れた力バンが盗まれてしまった。 犯人は、ただの物とりで、現金だけ抜き、草案は近くの田に捨ててあつた。 このため、もつと安全な所へ、ということになり、沖の夏島へ移つた。 二十年六月、夏島に別荘ができた。伊藤らは東屋と夏島の間を舟で渡り、翌年春に草案を完成した。 こうしてニ十二年二月十一日、紀元節の日に明治憲法、正しくは「大日本帝国憲法」は発布された。  今、小舟をつないだというタブの木と、記念碑が目にとまる。
原本記載写真
伊藤博文らは夏島へ船で渡り、憲法の草案を完成した。その夏島の周辺は埋め立てられ、 今では追浜工業団地の一角。写真は、夏島の全景。道路西側には、日産自動車KKのテストコースがある

夏島憲法 A  『大正15年石碑建立』
原文

憲法の草案ができると、夏島別荘は他に移転した。その後、夏島には、東京湾防備のために砲台が設けられた。 大正三年(1914)に、所管が陸軍から海軍に移り、五年、迫浜海軍航空隊が開設された。 七年から十五年までの埋め立ての結果、夏島は、かなり削られ、迫浜と陸続きになった。 十五年六月、横須賀鎮守府司令長官の加藤寛治(ひろはる)海軍大将は、 金子堅太郎と会談、話題が憲法起草の思い出に及び、一緒に夏島を視察している。 これがさつかけとなり、同年九月十五日、「明治憲法起草地記念碑」が建立され、 発起人に、かつての金子の同僚、伊東巳代治や海軍大臣の財部彪(たからべ・たけし)らも加わった。 高松官さまも、ご出席して除幕式が行われた。 碑は御影(みかげ)石。外面は七十六個の石からなるが、これは憲法七十六カ条を表している。 基礎の石はニ十二尺二寸一分一厘(一尺は約三十a)四方。 これも憲法発布の「明治二十二年二月十一日」を意味している。 さらに、夏島別荘の二十分のーの平面図や伊東の碑文が、銅板に刻まれていた。 碑が低いのは、飛行機の発着のじゃまにならない配慮からである。 戦後、碑のニつの銅版は何者かに持ち去られたが、航空隊跡にできた富士自動車KKの好意で、 昭和二十六年(1951)二月十一日、復元した碑の除幕式が行われた。 碑文は、当時の国会図書館長、金森徳次郎氏の筆による「明治憲法草案起草の跡」。 ところが、二十八年八月に失われた鋼板二枚のうち伊東巳代治の碑文が、浦郷町の古物商で売られていたのを、 田浦署榎戸(えのきど)派出所の森山巡査が千二百円で買い取り、元の位置に納め、同年十月九日再び復元披露が行われた、という。
原本記載写真
横須賀の北端、夏島は近代日本の幕開けを告げる地である、といわれる。 写真は、大正15年(1926)に建立された場所から移されて、約200に北側に建つ、明治憲法起草記念碑。 この辺りは旧海軍航空隊の飛行場だった

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