石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


坂本火葬場  『人口増に伴い普及』
原文

生きている以上は、お互いにー度は、お世話になる火葬場。 今、市営は坂本と浦賀のニカ所にある。明治の初めころまでは、寺の片すみの粗末な焼き場を使うか、 または、昔ながらの土葬だった。 やがて、造船所や海軍施設の発展による人口の増加や、衛生思想の普及に伴って、 やがて三つの火葬場が完成した。 坂本火葬場=横須賀町立として明治二十二年(1889)ころに建設された。 坂本町六丁目の現在地であるが、当時は横須賀町のはずれで人家も少なかった。 ハ年後の三十年ごろ、初めて窯を三つ備えた。 公郷火葬場=坂本よりも早く、十三年ごろに建設された。 豊島村の村営として発足したが、のちに市営となり昭和七年三月に廃止されている。 逸見火葬場=長い間、逸見村の村営。昭和四年に坂本火葬場改築とともに廃止。 話はさかのぼるが、明治四十年(1907)の市制施行後、新たな火葬場の建設が話題になった。 候補地は衣笠村の大明(だいみょう)寺の裏山、同じ衣笠村の平作の奥、佐野の批把(びわ)山、 そして公郷の妙真寺の山林などだつた、という。 長い年月をかけた結果、昭和三年十二月の市議会で、従来の坂本火葬場を大規模に改築することを議決した。 当時の使用料はー号窯が十円、二号と三号窯が六円のニ通りあったそうだ。 その後、八年に田浦町が、十八年に浦賀町が、それぞれ横須賀市に合併。 町営浦郷、浦賀の両火葬場は市営になった。 しかし、浦郷は戦後、廃止された。
原本記載写真
明治の初めごろまでは、粗末な焼き場か、土葬だった。 火葬場らしい火葬場がおめみえしたのは、明治13年(1880)以後。 写真は、横須賀市坂本町6丁目の市営坂本火葬場入口。 かつては、ここは横須賀町の町はずれだった

寄稿・補稿欄
皆様からの関連する記事・写真などの寄稿をお待ちいたしております。

参考文献・資料/リンク
横須賀市市立図書館
皆様からの声
ご意見、ご感想 お寄せ頂ければ幸いです。
ご意見・ご感想をお寄せ下さい


ご氏名 ペンネーム ハンドルネームなどは本文中にご記入下さい。 尚、本欄は掲示板ではございませんので即時自動的にページへ
反映される訳ではありませんのでご承知おき下さい。

メール:(携帯メールも可)