「明治三十年創立・横須賀浦賀間乗合馬車 石川卯之助。午前六時三十分ヨリ
午後八時三十分マデ十五分間毎二運転ス。賃銭、浦賀横須賀間 金拾参銭。雨天、又ハ夜間ハ金拾五銭」
ー これは「浦賀案内記」(大正四年刊)にある乗台馬車の広告である。
明治三十年(1897)といえば日清戦争の直後であり、海軍御用商人の石川勝蔵は浜田清太郎らと共同で開業した。
東京の鉄道馬車がモデルであった、とか。
コースは、今の京急浦賀駅辺の芝生(しぽう)から平坂(ひらさか)下。
だが、共同経営が思わしくなかったため、三十二年に石川卯之助が個人で再発足した。
馬車は、黒塗りの車体で横に赤線が一本。「黒馬車」とか、「石川馬車」と呼ばれた。
一頭六人乗りで当初、横須賀〜浦賀間の料金は七銭。
そのころ、富山という石川の元奉公人が独立、別に乗台馬車を走らせた。
赤塗りの車体のため、「赤馬車」と呼ばれたが経営難となり四十年ごろ、石川乗合馬車に買収された。
鉄製の車輪がゴム製になったのは明治も末。馬車の立場(たてば)は平坂下から公郷に移つた。
大正四年(1915)ころの料金は、次の通り。
《浦賀から横須賀へ》矢の津−三銭、
火の見−四銭、曲り谷−五銭、堀の内−七銭、山崎−八銭、埋地−九銭、田戸−十三銭。
《浦賀から三崎へ》 八幡久里浜−七銭、野比−十五銭、津久井−二十銭、上宮田−二十九銭、
半次−三十六銭、引橋−四十三銭、三崎−五十三銭。
いずれも雨天、悪道、夜間はニ割五分増し、となっていた。
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