石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


吉倉・榎戸間渡船  『大正10年ごろ全盛』
原文

横須賀湾への船の出入りは、幕末は江戸湾の防備の必要から、そして維新後は造船所や軍港で、活気ついた。 そのため、横須賀湾の入り口に当たる箱崎半島に、ニ度にわたり掘割が造られ、航海の安全を期した。 あとから造られたのが、長浦湾へ通じる荒井の掘割で、明治二十二年(1889)に完成、今も健在である。 ところで、旧EMクラブ前あたりは、かつて「金沢渡し」と呼ばれ、今の横浜市・金沢方面への船の発着場。 それが、軍港の拡張により路線が変更、吉倉に、榎戸(えのきど)行きの渡船がお目見えした。 明治二十年ごろのことである。 谷戸(やと)の町、逸見から田楠方面へ行くには、十三峠を越えるか、吉倉から山を越えねばならなかった。 このため吉倉運輸によって吉倉〜榎戸間の渡船がスタートした。 この渡船の利用者は、横須賀市統計書によると、明治から大正にかけて毎年一万五千人からー万九千人に及び、 大正の未ごろは五万〜六万人に達した。 特に、関東大震災が起きた大正十二年(1923)は、十一万二千人の利用客があった。 国鉄田浦駅が、明治三十六年(1903)にでき、国道上のトンネルも開通したのに、である。 渡船は吉倉〜榎戸間を四十分で走った。 三人乗合で明治四十年ごろは片道六銭。三人分、十八銭払えば貸し切りで、いつでも船を出してくれたそうだ。  大正十年ころが全盛期、渡船も十隻あったが、やがて昭和六年に姿を消した。
原本記載写真
波さえ静かなら海上交通は便利だった。 吉倉と榎戸(えのきど)を結ぶ渡船は、40分で走った。 明治の未ころの船賃は、片道6銭、3人分18銭を払えば、貨し切りだった。 写真は、渡船が行き来した吉倉の海

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