明治十九年(1886)一月、長浦地区に海軍水雷営(のちの水雷学校)と水雷修理工場が設けられた。
このため田浦、船越、浦郷に異変が起きた。
海軍用地の拡大で、海岸沿いの舟の行き来が難しくなっただけでなく、漁民が陸に上がって、
水雷工場などで働き始めたからである。
だが、谷戸(やと)から谷戸へは、山越えのほか方法はない。
そこで、どうしてもトンネルが必要となった。
同年五月、関さく工事が住民によって計画された。
浦郷村の渡辺富太郎、渡辺市郎石衛門、山田市左衛門、田川三郎兵衛、角井太郎石衛門、
田川太七ら六人が発起人で、翌二十年三月に梅田から日向(ひなた)、
今の船越町七丁目から浦郷町二丁目に通じるトンネルと、その前後の切り割り道路が完成した。
トンネルの幅は四・六b、長さはニ百b。
開さく工事費は四百八十三円で、労働者は延べ四千二十五人に達し、一日当たりの賃金は平均十二銭ほどになる。
一方、切り割り道路などに千六十八円六十銭かかったので、あわせて千五百五十一円六十七銭。
そのうち、地元の浦郷村の有志が八百円、近隣の町村有志が、残りの七百五十余円を負担している。
郡役所や村役場、いわば行政に依存せず、住民の力で身銭(みぜに)を切ったことが、その後の地域づくりに大きな影響を与えた。
なお、この開さく工事を記した「梅田隧道の碑」が、トンネル北口の坂下に大正四年(1915)に建立された。
書は、樺山資紀(かばやますけのり)海軍大将による。
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