石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


海堡 @ 『30年かけ3つ構築』
原文

明治十一年(1878)一月、陸軍参謀局の海岸防禦(ぎょ)委員、工兵大尉西田明則(あきのり)は、「東京湾建設論」を、陸軍大臣山県有朋(やまがたありとも)に提出した。 その内容は「現在の火砲の射程距離からみて、陸上の砲台だけでは東京湾口の防備は無理。 走水と千葉県富津(ふっつ)岬間の海中に岩石を投入、それを基礎として砲台を築く、つまり海堡(ほ)を三ヵ所、設ける必要がある」というもの。 この意見は採用された。 「東京湾要塞(さい)歴史」(昭和五十五年刊)によると、第一海堡は、十四年に着工しニ十年に完成、第二海堡は、二十二年に着工し三十二年に完成。 そして第三海堡は、十五年に着工し四十年に完成(予定)とある。しかし、第三海堡の完成は、予定よりー年遅れたようだ。 とにかく、約三十年かかって三つの海堡が誕生した。 この人工島の規模や現状は、あとにゆずるとして、その必要性を説き、自ら計画を立てた西田明則は、三十九年五月にハ十歳で他界した。 第三海堡の完成を見ずじまいだった。 かつて西田は、急流の潮をものともせず潜水服姿で海底の基礎を調べたり、朝五時から部下を引率、現場に出向いたりした。 墓は、聖徳(しょうとく)寺に。 東京湾を見おるす衣笠公園に衣笠神社がある。 その前を登りかけた所に、「西田明則君之碑」が建っている。 これは、大正十一年(1922)八月に建立。 文は、元師陸軍大将上原勇作による。
原本記載写真
東京湾の入口を防備するために、湾内に 三つの人工島(第1、第2、第3海堡)が造られた。 昭和20年の終戦まで海に浮ぶ要塞(さい)だった。 手がけたのは、西田明則(あきのり)工兵大尉。 写真は、横須賀市衣笠公園の頂上近くに建つ、西田大尉の碑。

海堡 A 『暗礁の危険も再三』
原文

第一海堡(ほ)は、対岸の千葉県に最も近く規模が小さい。 富津(ふっつ)岬から西へ三`、水深三b、六年間で完成した。面積はニ万三千平方b。 第二海堡は、第一海堡からさらに西へ二・五`の所で、水深九b、十年間で完成した。 面積は四万一千平方b、当初の形が最もよく残っている。 第三海堡は、第二海堡から南へニ・六`、走水からは北へニ・五`の所。 水探は、なんと三十九b。難工事続きで、完成まで十六年かかった。 ちなみに石材を二百八十万立方b、砂を五十四万立方bほど海中に投じた。 労働者は延べ四十三万人。面積は六万四千平方b、猿島の約ー・二倍の広さである。 なお、これに使った石材は、市内の鷹取山や、千葉県の鋸(のこぎり)山からかなり切り出した、といわれる。  海上保安庁の海図「東京湾」には注意書きがある。 第一海堡は富津岬にある建物と見間違えやすく、第二、第三海堡も船舶の出入りが多く、その影になって 見分けにくい という趣旨だ。 特に第三海堡(崩壊)はしーダーでも確認しにくい、という。 第二、第三海堡の間が「浦賀水道航路」。 第三海堡は崩壊、上げ潮どきには暗礁の危険がしばしば。 それが”魔の浦賀水道”の言葉を生んでいる。 一方、岸壁が適当に崩壊している第二海堡は魚礁、魚の寄り場となつている。 第二海堡といえば、目を輝かす釣り人が少なくない。全国の釣り人口は約千五百万人。 そのニ、三割が東京湾岸に住む。 久里浜から10馬力の船外機ボートで一時間、遊漁船ならニ、三十分で第二海堡へ。 ”春告魚”と呼ばれ、春を告げるというメバルが、ここの目玉だそうだ。
原本記載写真
海堡の建造に使った石材は、横須賀市内の鷹取山や、千葉県の鋸(のこぎり)山から切り出された。 写真は、第2海堡の全景。戦後、東京湾口は行きかう船のラッシュ続き。 今では安全航海上、海堡は障害物となっているという。

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