石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


官修墓地  『かつて政府が管理』
原文

京急追浜駅から国鉄田浦駅行きのバスに乗り「深浦」で下車。 近くの右手の石段を登ると、広さが約六十六平方b(約二十坪)の平地がある。 ここが、西南戦争の勇士五十二柱が眠る官修墓地。 明治十年(1877)二月十五日に、 西郷隆盛らが明治政府に対して兵を起こした、西南戦争である。 維新からわずか十年。まだ体制が十分でなかった政府は、にわか仕込みの軍隊を鹿児島に送って鎮圧した。 ここに眠る五十二柱は、いずれも政府の徴募に応じたもので出身地は新潟、宮城、茨城などニ十県に及び、 大半は警察官だった。 さて、政府軍は意気揚々と九州から帰郷。 だが、傷つき病に倒れた人たちは九州から「東海丸」と「和歌の浦丸」の二隻に分乗、海路で帰ることになった。 だが、この船に伝染病が発生、東京湾に入るや、政府は長浦湾口に停船を命じた。 箱崎半島に病舎を造り患者を収容した。 ここで、多くの人が亡くなり、追浜の黒崎海岸に埋葬された。 墓は五十二だが当時、郷里に持ち帰られたものもあったようだ。 政府が、管理や補修をする官修墓地となったが、この地が海軍航空隊の用地となり、大正二年(1913)、今の所に移転した。 墓地は、横須賀市が管理しており、毎年四月には、慰霊祭が行われている。
原本記載写真
明治10年(1877)の西南戦争へは、にわか仕込みの軍隊が、はるばると東京から鹿児島へ送られて政府軍として奮戦した。 写真は、横須賀市浦郷町3丁目にある官修墓地。 52柱が眠っている。碑は昭和 8年に建立。 「忠斛千秋義烈然萬古」とある

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