国道一三四号線を大津から久里浜へ。
シーアイマンション手前を左折。すぐ右手に参道入り口がある。
馬門山墓地は根岸町一、二丁目の丘の上。ここは、明治十五年(1882)一月、
海軍省が戦死もしくは殉職した軍人のために設けた。
大正六年(1917)に弔祭内規が定められると、鎮守府の主催によつて年一回、神式と仏式を交互に
した祭典が行われた。
戦後は、横須賀市が管理を引き継ぎ、現在の墓前祭は毎年五月、市戦没者合同慰霊祭の前日に行われている。
この墓地にある碑と墓の数は、次の通リ。
》軍艦河内殉難の碑=六百二十一基
》軍艦筑波殉難の碑=百五十二基
》特務艦関東殉難の碑=六十八基。
》北京籠城軍艦愛后戦死者の碑=五基
》上海事変死者の碑=五十九基
》第四艦隊遭難殉難者の碑=三十六基
》支郡事変・大東亜戦争戦没者忠霊塔=三百七十二基。
ほかに戦死及び殉職者の墓がニ百七十九基、会わせて千五百九十二基。
別に、墓地のふんい気を損なわない範囲で戦後、一般に開放されたため、市民の墓が三百五基ある。
昭和二十八年九月建立の「猿丸重野女史留魂碑」が目にとまる。
中国上海に滞在、海軍部隊の世話をし続けた「海軍婆(ぱあ)さん」の碑と墓である。
晩年は知人の多い横須賀へ。同年二月に衣笠の老人ホーム・共楽荘で永眠した。
碑は、上海特別陸戦隊の司令官であった海軍中将、大川内(おおこうち)伝七の書による。
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