石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


横須賀重砲兵連隊 @  『にぎわった連隊祭』
原文

各砲台のつわものどもを鍛える要塞(さい)砲兵第一連隊が明治二十三年(1890)五月、不入斗(いりやまず)に誕生した。 この連隊は、陸軍でも珍しく名称をしばしば変えたが、戦前派にー番なつかしいのは、大正九年(1920)以来の「横須賀重砲兵連隊」であろう。 だが、昭和十六年には、二つの部隊となり、東部七五部隊、東京二一一二部隊と呼ばれた。 毎年の春四月には連隊祭が行われ、この日ばかりはー般市民も花見や余興を楽しんだ。 また、入隊や除隊のシーズンともなると、京急軍港駅(今の汐入駅)前の汐入大通りから、坂本の坂にかけて人波が続いた。 この道路は、のちに戦雲あわただしくなるにつれて、白布に包んだ銃を肩に、靴音を響かせたー団が、しばしば通過。 そのー方、無言で帰る英霊の数も多く目にとまるようになった。 話はとぶが、終戦まぎわの空襲で被害を受けた汐入小学校の校舎を、この連隊のー団が無理やり引き倒したが、皮肉なことに作業完了の翌日が終戦だった。 「下町が海軍なら、おらが坂本は陸軍さ そんな意気込みが町にはあった」とは、連隊の近くで育ったお年寄りの話。 ところで今、汐入町三丁目の「ちこく坂は、外出した兵隊が駆け足で通ったので「遅刻坂」の意味だ、といわれる。 戦後、漢字で書くのなら「千石坂」だと地元の繁栄をこめながら、町会によって”命名式”が行われた。
原本記載写真
「下町が海軍なら、おらが坂本は陸軍さー そんな意気込みが、町にはあった」、「起床ラッパで目を覚ましたものだ」とは、 連隊の近くで育ったお年寄り=のお話。写真は、今も残る横須賀重砲兵連隊のレンガ塀と営門

横須賀重砲兵連隊 A 『多彩な御用商人ら』
原文

おおげさな言い方だが、のどかな田園風景がー夜にして軍隊の駐屯地となったのである。 それだけに、五十五年間の連隊の存在は、地元と深いかかわりを育てた。 「私の娘時代は家じゆうが連隊から聞こえる起床ラッパの音で起きた」とは、坂本のお年寄りの話。 ところで、連隊の ”御用商人” がお目見えした。 突貫だんご屋ー突貫とは剣付きの銃で敵陣に乗り込むこと。 数個のだんごを剣ならぬ串(くし)でつっ通し、しょうゆで味をつけながら焼く。 馬ふん屋ー連隊には大砲を運ぶ馬が数多くいた。 毎日大量の馬ふんの払い下げを受け、千して肥料に。 それを農家に売り歩いた。 芋屋ー四斗樽(だる)にすのこを敷き、ふかしたサツマ芋を詰めて馬力で運んだ。 連隊のおやつである。 員数屋ーいったん配給されたもの、つまり軍隊の官給品は、たとえ靴下でも、ボタンーつでも、なくしたら大変。 人のを盗めば済むが、それには要領がいる。 正直者や気の弱い者は員数屋へ駆け込む。 「大砲以外なんでもござる」のがこの商売。 だが、どこから仕入れるのか、七不思議のーつだった。 戦後、連隊当時の建物でしばらく残っていたのは、将校集会所である。 明治三十四年(1901)四月に建った。 樹齢二百年近い、イチョウの木は、貴重な存在である。
原本記載写真
55年間の連隊の存在は、地元に深いかかわりを育てた。突貫だんご屋、馬ふん屋、芋屋、員数屋など”御用商人”がお目見えしたという。 写真は、将校集会所。戦後は、長らく市教育研究所として活用された

横須賀重砲兵連隊 B 『衛兵20人が「敬礼」』
原文
「敬礼=@初年兵は相手を皆、上官と 思うこと。横須賀は海軍のなわぼりで、これでは上官が多過ぎてあげた手が下がらない。それでも外出したい。 A暗やみの酒保(連隊の売店)付近ですれちがいの上官?に敬礼したら『こんばんは』。 よく見たら酒保ののんきやの爺(じい)さんなり。ちと気まり悪し」。 ーこれは連隊の戦友会誌「横重会」(昭和五十年刊)に書かれてある。 敬礼といえば、今の市立青葉小学校の校門、当時の営門内の左側に衛兵所があった。 つねに約二十人の衛兵が長いすに着席。将校が通るたびに「敬礼!」と叫び、全員起立して敬礼した。 この衛兵所の横が営倉。軍規違反者の収容所だ。 営門の右側は、面会所や連隊本部で、今の青葉小学校の位置。 その裏手の坂本公園は馬場で、軍馬の訓練場だった。 なお営倉の裏、今の聖佳(せいか)幼稚園の所に、誠心山と呼ばれた小高い丘があった。 「大正十三年秋季演習後、休暇を返上して構築した」と記録にある。 ここの碑は今、坂本公園の片すみに、横重会の手によって移されてある。 今の不入斗(いりやまず)中学校の所に長さ百五十bの東洋一の兵舎。 反対側の丘の上、坂本中学校の所に長さ約八十bの兵舎がニ棟あった。 そして、その裏手の山の中腹に忠霊塔、わきの谷間に火薬庫があった。 戦後、このー帯を整地、今は桜台中学校。裏門近くの倉庫あたりがのちに、養護学校となった。  朝な夕なの「ワレラハ砲兵、皇国(ミク二)ノマモリ」の軍歌演習に代わって、連隊の営庭ならぬ学園の校庭に、 子供たちの元気な姿が跳びはねる。

原本記載写真
赤レンガの塀に続く営門を入ると左手に衛兵所、営倉。 その裏に誠心山と呼ぶ小高い丘があった。 連隊にとって聖地の一つだった。 写真は、誠心山にあった碑(左)と、戦後「横重会」が建てた碑(右)。 坂本公園の片すみにある。

現在2っの碑は桜小学校(坂本町1丁目)校庭西側に置かれている

横須賀重砲兵連隊兵舎 戦後、手前の兵舎が坂本中学校として、奥の兵舎が不入斗中学校へ転用された

大正14年頃の連隊の正門
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