石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


 @ 牛乳など生産販売
原文

「横須賀経済経営史年表」(昭和四十五年刊)をひもとくと、こうある。 「明治二十八年(一八九五)当時、横須賀町に中沢牧場(港町)、鬼沢(きざわ)牧場(坂本町)、豊島村に若命牧場(豊の坪)があり、 市乳の生産販売をおこなう。うち鬼沢牧場は煉乳も製造した」。  鬼沢牧場は、大正十四年(一九二五)まで横須賀市坂本町二丁目、市立坂本小学校が建つ所にあった。この牧場で監督さん≠ニ呼ばれた池田六太郎さんのお 子さんの一人が松木美世さん(七二)。 横浜市南区にお住まいで、神奈川民芸協会副会長としてご活躍中。お話をうかがった。  「牧場は父のおじ、鬼沢住之助が海軍を退役してから始めました。『これからは牛乳の時代だ』といった具合で、まあ先見の明があり、 とても文化人だったそうです。ヨーグルトを研究、希望者にお分けしたり、バターの開発に務めたりして…。 書をたしなみ、また田鎖式速記録の田鎖さんが、まだ世に出る前、下宿させて面倒もみたそうですよ。 おじは大正十一年、たしか六十歳で亡くなりました」 「父ですか。池田六太郎は海軍の船乗りを望んでいました、とか。結局は、おじの牧場を手伝いました。 経営を一任されてましたので、皆さんからは監督さん≠ニ呼ばれていました。乳牛はたくさんいましたよ。建物は牛舎一棟のほか、 母牛室や産室がありました。飼料は中国から輸入されたものが多かったので、父は中国の国内状態の不安定を嘆いていました。 『牧場なんて飼料が安くないと…』といっては、先方の平和を願っておりました」。  鬼沢牧場に、同じ坂本町にお住まいだった当時の市議会議員、飯塚竹次郎さんがみえた。「坂本町に、どうしても小学校を建設しなければ…。子供たちのためなんです」という話を持ってこられた。
 
原本記載写真
 日清戦争が終わった明治28年のころ、横須賀町に中沢牧場があったという。 写真は、今の市内坂本町、山ふところの草原にあった鬼沢牧場である。ここは大正14年、市立坂本尋常小学校建設のために整地が始まった

 A 小学校建設に協力
原文

横須賀市坂本町の戸数や人口を大正二年と、 十四年後の昭和二年とを比べてみると、戸数では約二倍、人口では約九百人もふえた。その間、全市の人口増加数は約二千八百人。 いかに坂本町に集中していたかがわかる。だが、坂本はむろん池上の子供たちは、汐入尋常小学校へ通学していた。 大正の末、「坂本に小学校を」という声が高まった。  学校建設の候補地は、坂本地域に五カ所あった、とか。そのうちで鬼沢牧場が第一候補となった。 交渉にみえた市議会議員、飯塚竹治郎さんに、牧場の監督さん£r田六太郎さんは、こう答えた、という。「人と家が引っ越せばすむ、といった簡単なものではない。 しかし、地元に学校ができるのなら、子供たちの教育のためなら、協力しましょう。わかりました」。  再び、池田さんのお子さん、松木美世さんの話。  「昨年亡くなられた飯塚家の芳子さんと私は、小学校以来の仲よしでした。よく私に『あなたのお父さんは立派な方だった、と父がほめていた』といってられました。 大正十四年でしたか、牧場は市内池上、もとの池上小学校下ですが、そこへ移り、しばらくたって『池田牧場』と、名儀を変えました。 学校のほうは、昭和二年に汐入尋常小の分校として発足、四年になって坂本尋常小として創設されました。なお、鬼沢家は、私の姉が継ぎました」  「戦時中ですか。よその二、三の牧場とともに海軍へ牛乳を納めていました。 葉山御用邸にも乳牛はおりましたが、万一の場合、代役を務めなければならないため、牧場には『この牛とこの牛から牛乳を御用邸へ』と、県庁からお墨付をいただ いた牛がおりました。そう、そう、終戦近くには、海軍さんがみえて、食糧増産のために牧場を開墾、野菜作りに励みましたよ。ところが、 収穫を待たずに終戦となりました。池田牧場は健在です」。
 
原本記載写真
 「地域の学校のためならば」とは鬼沢牧場の”監督さん“ 池田六太郎さん。大正14年(1925)に市内池上町へ移り、のちに池田牧場と名義を変えた。写真は、大正9年ごろ 牛舎前の池田さん一家。=横浜市南区 松木美世さん提供

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