石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


大横須賀建設 @ 隣接町村と合併に
原文

横須賀市会は、昭和七年七月十五日に「隣接町村合併ノ件建議案」を可決した。  その内容は、次の通り。「時勢ノ進運ニ伴ヒ本市隣接町村タル浦賀町、田浦町、衣笠村、及ビ久里浜村ハ本市卜合併シ、共同ノ福利増進ヲ計ル コトヲ現下ノ急務卜認ム。依(ヨッ)テ本市長ハ速(スミヤカ)ニ之(コレ)ガ促進ノ途ヲ講セラレンコトヲ望ム。昭和七年七月十五日 横須賀市会議長 若命信二 横須賀市長 大井鉄丸殿 右建議ス」。  その結果、「大横須賀建設準備委員会」が発足、隣接町村との合併に乗り出すことになった。当時の隣接町村とは、田浦町、衣笠村、久里浜村、浦賀町ほか五カ町村 (逗子町、北下浦村、長井町、武山村、大楠町)だった。
まずは田浦町、衣笠村と交渉が始まった。交渉委員は、横須賀市側から、長浜顕達、清水源七、山本岩吉、若命信二、後藤八郎、小佐野皆吉、高橋孫作の七人。 補佐として、外崎柾之助、飯塚竹次郎、大井澄、金井金作、馬淵曜、竹見堅三、三上文太郎の七人が当たった。 一方、衣笠村からは、大井逸雄、大塚惣之輔、三橋熊太郎、三堀平次郎、石渡勝蔵の村会議員五人。田浦町からは、佐野平次郎、蒲谷又佐衛門、渡辺泰治、 田川平三郎、楠林正斎、浜田清次、堀合伊作の町会議員七人、金谷運吉、蛭田政吉、石渡勝助、市川惣五郎の町民四人。  田浦町から、横須賀市に合併についての条件が提出された。それは、 ▼田浦町の債権債務は横須賀市が継承する▼田浦町吏員は引き続き市吏員に採用する▼現田浦町役場の位置に市役所の出張所を置く▼水道を全町に普及し給水すること ▼塚山公園へ本町付近集落より道路の完備をなすこと…など十一項目にわたった。横須賀市側は、これらをすべて承認、その実施を公約した。
 
原本記載写真
 横須賀市は昭和7年に「大横須賀建設準備委員会」を発足、隣接町村との合併に乗り出した。 まず田浦町や衣笠村と交渉が始まった。写真は、旧田浦町時代の町会議員選挙の結果(昭和4年4月26日)

大横須賀建設 A 久里浜村と交渉へ
原文

合併に当たって衣笠村が、横須賀市に提出した条件は、 次の通りだった。  ▼合併当時の役場吏員は市吏員に採用する ▼合併後は旧村役場を市の出張所とする ▼小学校は現在の位置を変更しないこと  ▼合併後は通学区域を変更し児童の利便を図ること ▼法塔より池上へ通ずる幹線道路を完成すること▼尿(し)尿汲み取りや運搬の手数料条例は 当分の間、衣笠村区域には適用させない。
 これらは横須賀市が承認した。合併の交渉は終わった。衣笠村は昭和八年二月十五日、横須賀市制二十七周年記念日に、また田浦町は、同年四月一日、新年度発足の日をもって合併。  「横須賀市史」(昭和三十二年刊)に、こう記されている。「…そこで市は、大横須賀建設の第一歩として多年の懸案の解決を祝し、同年四月三日、市内外の名士を三笠球場に招いて、 盛大な合併祝賀会を催し、合併功労者一人一人を表彰した。また当日、市中は、旗行列、提灯(ちょうちん)行列その他数々の催し物でにぎわい、 市民は戸ごとに国旗を掲揚し、提灯をかかげて市の発展を祝福した」。  明治四十年(一九〇七)市制施行の折、人口六万二千八百七十六人、面積十・九平方`だった横須賀市は、この合併後、人口十五万八百二十五人、面積三十四・ 三平方`に飛躍した。ちなみに、農家は二百二十二戸から八百四十一戸となり、畜産物を除く農業生産額は年間、一万五千七百二十五円から六万八千九百三十五円に達した。  次いで、旧田浦町に隣接する久良岐(くらき)郡金沢町や六浦荘村に目を向けたが、昭和十一年十月に横浜市と合併する意向をつかんだので断念、 久里浜村や浦賀村と交渉を始めた。久里浜村の村長は五本木信、助役は村山長次郎。交渉には、北村茂賢、榎本邦久、三原良之、中林治郎吉、山田伊勢松、 阿部甚太郎の村会議員、村民から山崎元匡の七人が当たった。
 
原本記載写真
 横須賀市の隣接町村との合併は衣笠村や田浦町に次いで、久里浜村や浦賀町へ目を向けた。 写真は、旧浦賀町時代の社会館。今でいえば公民館であり、地域の人たちの集会などに重宝がられていた所

大横須賀建設 B 海軍の要請で合併
原文

海軍は、軍港周辺の行政的統合に務めた。 昭和十六年には呉市、十七年には佐世保市の周辺町村を合併、次いで横須賀市へ。同年八月に横須賀鎮守府から神奈川県知事あてへ、次のような通知が出された。  「横須賀市及ビ三浦郡各市町村ノ合併ニ関スル件照会 軍事上ノ必要有之合併ノコトニ御取計相成度。追テ本年明治節ヲ期シテ実現ノコトニ取計ハレ度、 希望ニ有之為念申添候」  合併の対象となったのは浦賀町、北下浦村、大楠町、武山村、長井町、逗子町の六ヶ町村だった。いずれも海軍の諸施設をかかえていた。 鎮守府は「横須賀市及ビ三浦郡各町村ハ速力ニ合併スルヲ要ス」という印刷物を各方面に配布した。  それによると「三浦郡一帯ハ地域防衛上・・・」「軍港都市トシテ施設整備上…」「地方財政整備上…」「市民生活ノ安定並ニ均衡上…」などと、 合併の必要を説いた。 そして、印刷物は、こう結んでいる。「…大海軍策源地建設ノタメ地方官民一致協力、小我ヲ捨テ大局ニ就キ、大乗的見地ヨリ速ニ全地域ヲ有機的ニ統合セル行政 地域タラシメ、以テ其ノ機能ヲ十分ニ発揮セシメラレンコトヲ熱望シテヤマザルナリ」。  県知事も内務大臣に合併への経過を報告。こうして昭和十八年四月、横須賀市と浦賀町など六ヶ町村の合併をみた。 この合併は、今までのような関係市町村が話し合い、県知事へ申し出たものではなかった。だが、各町村は横須賀市に対して、 町村で計画した事業を受け継ぐ、旧役場を市役所の出張所とする、などの要望が出された。  十九年二月現在、横須賀市の人口は、二十九万八千百三十二人、面積は百九・五〇平方`となった。二十五年七月に逗子町が分離。 なお、葉山町は、この一連の合併について、言ってみれば対象外≠セったようだ。
 
原本記載写真
「大横須賀建設」も軍事色を帯びてきた。昭和18年4月には、 横須賀市は浦賀町など6ヶ町村と合併した。写真は、旧浦賀町大津練兵場での海軍部隊による分列行進。 よく市民が見学に出かけた。今の市大津運動公園である

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参考文献・資料/リンク
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