かつて人気があったという「三浦たばこ」は、
「長井たばこ」、または「井尻たばこ」とも呼ばれた。
今から二百四十年ほど前の延享年間(一七四七年ごろ)、三浦郡長井村字(あざ)井尻の一農民が自家用に生産したのが始まり、と伝えられる。
天保年間(一八三〇〜四三)には、遠州方面から商人が葉たばこを買いに来たり、仲買業も生まれた、という。安政年間(一八五四〜五九)には生産量が増え、
藤沢や江戸へ送られた。
明治になると、三浦郡で葉たばこを生産したのは長井町、南下浦村、初声村。合わせて生産量は、明治二十年(一八八七)には約二万貫、三十一年には約四万貫と倍増。
栽培面積は八十町(約八f)となった。そのころ長井町に、浅草専売局秦野出張所長井取扱所が開設された。
これがのちに、東京地方専売局横浜出張所長井取扱店となる。なお、四十年の栽培面積は百六町に。
大正十五年(一九二六)の耕作者数は、長井町百八人、南下浦村二十六人、初声村百八十四人、それに三崎町一人、計三百十九人だった。
この年の「町村別耕作反別及ビ賠償金最多者一覧表」から、長井町の部分をあげてみる。
「耕作反別最多者=肥田金吉(三、二一〇歩)、収得賠償金最多額者=沼田定七(六一〇、五七〇厘)、一貫匁当り賠償金最多者=沼田定七(三、三三四厘)、
一反歩当り賠償金最多者=嘉山辰次郎(二二三、六〇一厘)」。功績者として長井町煙草耕作組合長の原田好安さんが表彰された。
「三浦たばこ」は、昭和十年代になると、長井町を中心とする耕作者は、ほとんどなくなり、そ菜栽培に転換。品質が米国産に劣る、
新品種の乾燥に長時間労働と高度の技術を必要とするためだった。戦後の昭和二十二年、三浦半島から葉たばこの耕作は姿を消した、とか。
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